02本との出会い、再会

 私の読書遍歴のスタートは、吉川英治の『宮本武蔵』に始まります。
 中学三年の修学旅行のとき、バスガイドさんが宮本武蔵の巌硫島の決闘の場面をあまりにも鮮やかに朗読してくれたのに触発されました。旅行から帰って、さっそく講談社の 『宮本武蔵』全四巻を買い求めました。おもしろさに時を忘れて読みました。武蔵の生き方に感銘も受けましたし、本の楽しさにも目覚めました。
 以後、本なくしては暮らせない状態です。
 あまりにおもしろかったので友人達にも薦めました。何人かが回し読みを始めました。 評判も良く、薦めた私もいい気分でした。
 中学校卒業が近づいたとき、本を回収したのですが第三巻が行方不明となり、どうしても見つかりません。四巻あってそのうち一巻でもないと意味がありません。かといって第三巻だけ新しいものを買う気も起こりませんでした。
 そのときは何か心の中にぼっかり穴があいたような気分でした。
 高校へ進学して、数学のおもしろさにとりつかれ、そのことは何時しか忘れてしまいました。
 読書のほうはといえば、教科書で習った『こころ』をきっかけとして、夏目漱石の作品を多く読みました。
 『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』に始まり、『三四郎』『それから』『門』の三部作を経過して、『硝子戸の中』『道草』等を読みました。
 若い私にとって、漱石の深い思想には程遠いものがありましたけれど、漱石にふれているという満足感が私を満たしていました。
 五十歳を越えた今、あらためて漱石を読み返す機会を作りたいと思っています。

 大学時代は時間が豊富にあったため、多くの本とめぐり会えました。三島由紀夫の遺作となった『豊饒の海』全四巻はすべて初版本で持っています。第一巻『春の雪』という夕イトルがやけに新鮮に感じられ、読み始めました。それにひきづられるように、第二巻以降も初版で買いそろえたのです。三島由紀夫の自決が報じられたときは、第二巻『奔馬』のラストシーンが思い起こされました。
 山岡莊八の『徳川家康』全二十四巻も大学時代に読破しました。一日に一巻読んだときもあれば、何ヶ月もかかってやっと一巻読んだときもあります。三年をかけての読了でしたが、全てを読み終えて本を閉じたときの感慨は今も残っています。
 トーマスマン『魔の山』は読みかけてはくじけ、くじけくじけて、とうとう大学時代には読み通せませんでした。読み終えることができたのは、教師になってからです。その間およそ十年かかりました。
 『カラマーゾフの兄弟』なんかも読了にかなりかかったように思いますが、私に大きな影響を与えました。
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』には熱く心を動かされました。若者への推薦書を問われたとき、一押しに薦める本となっております。
 専門書が高いこともあって、よく古本屋へも通いました。
 店先に並べられた、一冊十円の投げ売りの中から、デカルトの『方法序説』とか元吉享の 『体験主義教育の実際』などを買って、赤線を入れながら何回も読みました。
 本との出会いは人の出会いにも似て味わい深いものです。
 足繁く通っていた古本屋にその日も顔をだしました。
 店頭の掘り出し物も見つからず、ふと本棚に目をやったとき、一冊の本が目に飛び込んできました。
 たくさん本が並んでいるのに、まるでその本しか見えない感じでした。
『宮本武蔵』第三巻
 思わずその本を手にして裏表紙をあけるとY. Sのイニシャルが 。
 驚きと緊張と感動が入り乱れて手がふるえました。急いでカウンターへ行って買い求めました。
 七年ぶりの再会でした。
 家へ帰ってその本を本棚に収めたときの満足感は忘れられません。
 本の不思議な魅力が今も私を引きつけます。これからも繰り返される出会いに心がときめきます。

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