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色んな学校あるけど、とりあえず普通で良いんじゃない?

先日、久しぶりに街中の児童館に行ってきた。
そしたら、児童館仲間の親子がいて、これまた久しぶりだったもので、「元気にしてた?」なんて会話がはずんた。

それは唐突に始まった。

「ウチの子、来年小学校入学なんだけど。」


そのお母さんが言うところを要約すると
●今までのように、普通に学校行って、良い高校・良い大学と進学し、そのまま就職する事がステータスとなる流れは終わりつつある。なぜなら、企業が一生面倒みてくれる保証は無いから。

●子供には自分で考えて、自分で未来を切り開く能力を身に着けて欲しい。

●敷かれたレールの上を行くような教育をする、普通の公立小学校ではその能力が身につかないため、うちはオルタナティブスクールに通わせることにする。


どどどどどっ、と畳み掛けるように話されて、最後はしたたかに仕事の宣伝までしていかれた。

わあ、全部わたしが考えていた事と同じ!

だけど、だけど・・・なんか違う!!

そう思った。

確かに、これからは違いを尊重しあいながら、個人としてどう生きるかがますます問われてくる時代になるということは、よくよく理解しているつもりで。

そうなってくると、このお母さんの考えは間違ってないはず。

だけど、なんなのか。この違和感は。


家に帰って夫にこの話と、違和感について話すと。
「それ、新しいタイプの教育ママやん。」とバッサリ。

それから、
「親は、早くから子供に教育を施す。ひらがなは入学前に読み書きできた方が良い、英語にも小さいうちから親しんだ方が良い、学校は最新の考え方のところに行かせた方が良い・・・など。だけど、それって、単に『世渡り上手』な人間にするための教育じゃないの?本当に大切なのは、本当に教えなきゃいけないのは、そういうことじゃないでしょ。」と。


我が夫ながら、ええこと言うやんw


親は子供により良く生きて欲しい、幸せになってほしい。という願いをかける。それはどんな親だって同じことのはず。その方法として、早期教育や良い学校選びをしたがるけど、そうやって世渡り上手な人間になったところで、それは本当の幸せと言えるのだろうか

それと、自分の子には良い教育を受けさせたいというのは、結局、「勝ち組になりたい / 自分の子さえ良ければそれでいい」という考えの現れだと思う。

今回のお母さんの教育理念は全く間違ってないけれど、やっぱり皆がそういう考え方にならないと意味ないと思う。

これは、全体主義とかではなくて、やっぱり周囲の人も幸せになってこそ、自分も幸せになれると思うから。(逆も然りで、自分の幸せが周囲の幸せ。幸せは周りと連動しているということ。)

「あの子は良いよな。良い教育をうけたから、良い人生を歩んでいる」
ではだめで、
「あの子もあの子なりに頑張ってる。私も自分の道で頑張る。」
という方が自然な気がする。

それから。
親がいくら「こういう学校もあるんだよ」と行っても行かなくても良い風に選択肢の一つとして中立的に提示したところで、子供は本当に親の様子を敏感に読み取るもので、「お母さん行ってほしそうだな〜。よく分からないし、行くって言っとくか〜。」となってしまわないだろうか。

それって結局、親の敷いたレールの上を歩くことじゃないの?
(あんなに敷かれたレールの上を歩む人生を嫌っていたのに!)



とはいえ、子供の数が少なく、私立小学校もインターも無いこんな田舎で、オルタナティブスクールを立ち上げて素晴らしい教育に力を注がれている方々には、ただただ敬意しかないわけで。

そういう学校があるということで、地域にも良い刺激になるんじゃないかな。と思っている。

私としては、普通に公立小学校に通うけど、そういう場所が必要と子ども自身が判断したら、オルタナティブスクールも利用してみようかな。という考えでいます。今のところ。



蛇足ですが。

今回のことで、自分の頭の中で考えていたことと同じことでも、外から聴くと全然聴こえ方が違うというとが分かった。

いかに自分の中だけの考えというのは心もとないか!

なにか判断するときは、できれば誰かに話すとか、書くとか、一旦自分の外に取り出して客観的に見える形にしたほうが良いな。と思った。

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