じいちゃんが死ぬ時に2度も怒られた話
”育児「子供からの難問」あるある”なんだろうけど、うちも子供と『死』について話すことがある。
「お父ちゃんとお母ちゃん死んじゃったら悲しい」(涙目)
とか、
「死んだら真っ暗になると思う」
とか言っていた。
私も一緒に考えてみるものの、最終的に
「経験したことないし、分っかんねえよーーー」
と言っておいた。
そうなのだ。私は死んだことも無ければ、死んだことがある人に会ったこともないわけで、死後の世界なぞ分からぬのだ。
だけど、看取り(仮)なら経験したことがある。
じいちゃんいつ死ぬか聞いたら看護師さんに怒られた
数年前に家でじいちゃんを看取った。
だんだんと衰弱していっていて、毎日の訪問看護での点滴量も日に日に少なくなり、お医者さんからも「あとはもう静かに・・・」というようなことを言われた。
そこで私、看護師さんに
「(まあはっきりとは分からんと思うけど)いつ頃が危ないとかって、分かりますか?」
と聞いたのだ。じいちゃんの目の前で。
私としては、叔母にも連絡しなくちゃいけないし、色々段取りもあるし、これは忙しくなるぞーっていう感じでポロッと口から出ていた言葉だった。
看護師さんは「まあ〜」とか「いやあ〜」とか言葉を濁した後、私を部屋の外に呼び出した。
「もう喋れなくなっても、動けなくなっても、耳だけは聞こえているんです。まだ生きている人の前で『いつ』だなんて、聞いたらいけません。」
要するに、私のあまりの配慮の無さに激おこ(死語?)ってわけだ。
他人に怒られたことなんて、仕事の場面以外ではなかなか無いので、まあまあショッキングだったように思う。
看取りを美談にしたかった叔母ちゃん
私の連絡を受けて叔母ちゃんがやってきた日の夜のこと。
ばあちゃんと叔母ちゃんと母がじいちゃんと同じ部屋に寝ることに。
死にそうなじいちゃんの様子を見ておくため、何とはない話をしながら皆起きていたらしいのだが、何故か(答えはそう。暇だったから)全員が寝てしまったタイミングがあったらしく、その間にじいちゃんは息を引き取っていた。
連絡したらすぐにお医者さんが駆けつけてくれ、死亡確認というやつをしてくれた。
そこでまたしても私はやってしまうのである。
亡くなった時の様子をお医者さんに聞かれたので、
「みんな寝てたんだよね!(あはは〜)」
と答えた私をすごい形相で睨みつける叔母ちゃん。
「えっ?なに?」と思っていると、
「みんなでおじいちゃんの死をしっかり見届けたってことにしたいでしょ!」
と小声で叱りつけられた。
要するに、『家族に見守られながら、苦しまずに息を引き取りました』という美しいストーリーにしたかったらしい。
へえ〜そんなもんか〜と思いつつ、「でもそれ、嘘やん。」と心の中でツッコんでおいた。
「死ぬことは怖くない。でもライオンは怖い」
話は変わるが、最近聴いた中で、かなり印象的だったこちらのPodcast。
津田塾大学学芸学部教授で、南部アフリカをフィールドに狩猟採集社会の現代的展開について研究されている丸山淳子さんに話を聴く回なのだが、狩猟採集民ブッシュマンの死生観や悲しみとの付き合い方について、私達日本人とは違う感覚に驚き、へえ!とか、ほお!とか、なるほど!と言わずにいられなかった。
その中でも見出しに上げた
「死ぬことは怖くない。でもライオンは怖い。」
ブッシュマンの人たちのこの言葉は強烈な印象として残っている。
詳しくは是非聴いてほしいのだけど、要するに、
「死はだれにでもやってくる逃れられないもの。だから、怖くない。でも、ライオンは逃げられるから怖い。」
ということらしいのだが、なんとも分かるような分からないような・・・
だけど妙な説得力のある言葉として、グサッときた。
多様性の時代とか言って、生き方は人間さまざまになってきたし、人の生き方について人がとやかく言うことはないのだけど、その始まりと終わりの「生・死」だけはだれにでも平等に与えられている。あたり前田のクラッカー。
死なない人なんていないんだから、そういう意味では確かに恐れることなんてないのだ。それなのに、「終わりよければ全てよし」とか「有終の美」みたいな感じで死にゆくことを特別視してしまうのはどうしてなんだろう。
じいちゃんについて言及しておくならば、人の上に立つことで奢り、下のものを蔑むような人だったので、傷ついてきた人が沢山いたらしい。
そんなことがあって全然悲しくなかったこともあるけど、死ぬ時になったら生きていた頃の悪行三昧が急に無かったことみたいになるのは、ものすごい違和感を感じた。
私は、良いこと悪いことひっくるめて、もっと自然なありのままの形で、死を受け入れたかったのかもしれない。
なんとなく、そのあたりに私と周りの人のズレがあったことで、じいちゃんの死の周辺で二度も怒られることになったのでないかと、このPodcastを聴いていて感じた。
そして、ブッシュマンの人たちなら、きっと私を怒らなかったと思う。
もちろん、生死の問題を軽んじているのではないことは言っておきたい。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』じゃないけど、もっと自然に生きて自然に死ぬことができたら、それこそ潔くてカッコいいんじゃないかと思ったりしている。
人の死に際に関して、もっとドラマチックな話がもてはやされがちだけど、実際大半は私みたいなアホ話なんじゃないのかしら。
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