奥底の記憶
まだ梅雨も明けていないのに朝から暑い。天気予報では熱中症に気をつけましょうといっていた。外だけだと思ったら家の中でも熱中症になるらしい。ジリジリとした日差し。暑くけだるい夏の日はなにか昔にも同じような時間が通りすぎていった記憶を呼びおこす。
今日も光化学スモッグ注意報が発令された。どおりで目がチカチカする。
1970年の夏は、大阪千里の万国博覧会の話題で持ちきりだった。小学4年生の僕は、アメリカ館の「月の石」や三菱未来館、桜の花をモチーフにした日本館など、提供された話題に踊らされていた。それで楽しかった。目玉がギョロっと、いかにも芸術家の岡本太郎の太陽の塔にいつでも睨まれているようだった。いつかはその内側の螺旋回廊を登ろうと思っていた。
冷んやりとした湿った土の嗅いにムッとする。仰向けに寝転んだ姿勢のままでまっすぐ空を見上げると、遥か遠くの高い空は宇宙に続く深い紺色にグラデーションして、そこにはぽっかりと雲が浮かんでいた。さっきまでの急かされるような、けたたましい運動会リハーサルの、バケツのようなラッパ型スピーカーから流れてくるオッフェンバック「天国と地獄」序曲がまるでなかったかのように、シーンと静まり返っている。
吸い込まれていくような静寂。
組体操の練習で全員が寝転ぶわずか十秒足らずの時間だった。意識から遠ざかりながら、僕の五感は逆に鋭くなった。あたりまえのように第六感に反応できるように感じる。外の世界から隔絶され、水中に閉じ込められたように時が止まっている。
「ピー。」
勢いよく先生がホイッスルを吹いた。
ハッと気がつくと、次の演目に移る直線的な号令に意識が重なる。一転して元のけたたましい世界の組体操の練習に引き戻され秒針が一気に回り始めた。
小学4年生の僕の一日はとてつもなく長かった。一秒の中でもたくさんの経験ができた。学校の階段を5段飛ばしで一気に駆け降りることもできた。実際に見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、味を確かめたり、その感触を何回も何回も反芻し自分の感覚で進む時の流れを秒針に重ね合わせた。
僕のメモリーチップには土の湿った感触があの夏の一場面と輻輳して鮮やかに保存されている。夏の日の遥か遠くの思い出は暑い日差しによって昨日のことのように蘇ってきた。運動会の一瞬の静寂の中で見た遥か彼方に続く空の色と景色は誰もが見ていたものだけれどそこから届いた映像はそれぞれに違った色合いで心象のスクリーンに投影されて記憶の奥で眠る。
「同じ空がよく見えるのは心の角度しだいだから」言わずと知れた、きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」のワンフレーズだ。
空と同様に風景や花、美術や音楽また文芸作品なども含め森羅万象そのもの自体は何も変わらないが、受け手側のこちらの余裕やそのときの体調や気分、それこそ「心の角度」しだいで見え方や聞こえ方、印象の残り方が大きく変わってくる。心象による変化について芥川賞作家の柴崎友香さん『続きと始まり』の中の一場面を思い出した。車で通勤する女性が毎日同じ場所から見える街並みの風景がどのように心に映るかで、その日の見え方を自分で感じ取るという描写がある。自分の知覚からどのように心象に投影されるかに気づかう人物が描かれている。花を見て気づく時とそうでない時がある。余裕があるかどうかを測る何気ない自己診断だ。正常ではない予兆を自分で感知することができる。
今日1日の出来事は、そのほとんどが記憶から時間とともに薄れ通り過ぎていく。ましてや今朝通勤途中ですれ違った車を運転していた女性が何を考えていたかなどは思いもよらない。そんな一人ひとりの生活に流れていく時間や、家族、職場など私たちの周りにいる人たちの物語が同時に並行して進んでいく。
2020年3月から2022年2月までの出来事で構成され、2011年の3.11震災の記憶や忍び寄るコロナ禍に翻弄されつつも日常生活をおくる3人を中心に描かれる。大阪に生まれ滋賀で暮らす2人の子育て中でパートタイマーの石原優子。東京の居酒屋で働く料理人小坂圭太郎は年上の妻と5歳の娘と暮らしている。そして3人目はフリーランス写真家で40代の柳本れい。
それぞれに生活の糧として職場があり、家族や支えあう人たちがいる。3人を取り巻く生活の断面が時系列に描かれ、読み進めていくと、他者の生活を通して読者自身がその時々の実体験を想起し記憶に重層していく。別々の生活をおくりながらも、同時代、同時間を生きているので、ある瞬間にはすれ違ったり同じ場所で出逢ったりする可能性もある。いつのまにか作品の中の1ページに自分が加わるような感覚にもなり、読者も含め登場人物4人の現在進行形の小説とも読むことができる。緊急事態宣言、学校休校、行動制限や家庭内の感染症対策など記憶が生々しい。
日々の生活を繰り返すことに焦点がしぼりこまれていく作品には自然に共感し安心できるのは時代の要請だろう。根拠のなかった終身雇用や個人と家族の拠り所などがつかみきれない時代だからこそ、周りの人たち一人ひとりに生活があるという視点、この視点の共有が職場や学校、地域や家庭にも求められている。
世界規模でコロナ禍が進行する状況下、変容への不安が蔓延している。だからこそ、この小説の静かな力が一人ひとりに薄明をともし続けている。静かに見つめる視点は周囲の状況を、社会を、世界を見わたすことができる。過去から現在へ、そして未来へ続く確かな歩みは山をも動かす力がある。
コロナ禍は時間の経過とともに彼方の過ぎ去った記憶になって薄らいでいく。自分自身のあの異常で異様な2年半とはいったい何だったのか。
20年前にオーケストラを立ち上げる呼びかけが「週刊うえだ」という地元のタブロイド紙に掲載された。2004年春のことである。それ以来バイオリンやビオラを担当している。音楽は不思議なもので同じ曲でも時間をかけていくと新しい発見がある。安穏と暮らしてあたりまえのよう時がたち定期演奏会を繰り返してきた。しかし2019年から2020年に猛威をふるいはじめたコロナ禍で全てが一変してしまった。集まって練習したり演奏することがジワジワとできなくなっていく。演奏会も練習すらもできなくなった。咳すらできずお互いに牽制し合う暗闇に覆われた日々、終わりなき出口なき暗雲があたり一面に立ち込めた。
表現することに制限がかかる。今までの行動基準や拠り所にしていたことがことごとく通用しない。暗中模索の中でもとにかく何もすることがないが時間だけはあった。けだるい夏休みの暑い日差しの日々と重なってくる。午前中から再放送の時代劇を暇に任せて見て、見終わった時のけだるい倦怠感と何かしらの後ろめたさが入り混じったような時間がとにかく永遠と続く。
そんな何もできない中でも新しい時間の使い方をとにかく探り始めた。全く考えもしなかった縁すらなかった「ピアノ」の練習と「ことば」による表現を何の根拠もなかったが気がついてみたら新たに始めていた。月一回レッスンをしてくれる先生にまず頼ってバイエルとハノンをつまびく。また佐々木敦さん「ことばの学校」で文章修行も始めた。自分のアイデンティティを探すようだった。今まで頼っていたすべての基準や価値観が一変すると自分の意思ではない方向に引き寄せられて世の中が今までとは違って見えてくる。
音楽は不思議なもので、自分にも家族にも、また身近な生活圏でも、余裕があって平穏なときにはあたりまえのように受け取られる。しかしちょっとぎくしゃくすると「何をこの忙しいときにピアノなんて」と、やっかまれる対象でもある。だから、オーケストラでも古典のベートーヴェンや、自分で発信する下手な音楽が、音楽自体は変わっていないのにそれを受け取る自分や、周りや、世の中の余裕があるかないかを測るモノサシとして常に備えている。
ピアノは持ち曲をとにかく2つ作ってひたすら毎日繰り返して場数を踏み鍛える。長野県内のストリートピアノは戸隠観光会館の河合隼雄先生寄贈のグランドピアノから南は豊丘の道の駅のペイントされたアップライドまでたどって寺社巡りのように持て余す時間をうめた。また上京した折には東京都庁の展望台のグランドピアノも弾いてみた。
音楽でもことばでも誰かに届くようにという根底は共通する。音楽には歌とともに伴奏をすることもあるが交響曲のように楽器のみの音の積み重ねで表現されるものもある。ことばで解説しようとしてもそれ以上のものが内包されている。古典と呼ばれる音楽も現代に演奏したり聴いたりする魅力がある作品には何がそうさせて生き延びているのだろうか。表現すること、作品や演奏に触れることはヒトのもともと持っている動物的な細胞に宿る遥か彼方の記憶を想起させるのか。音楽を題材にあまりにも有名なベートーベンを逡巡する。
ベートーベンと云えば「ダダダダーン」や「ジャジャジャジャーン」。副題の「運命」で有名な交響曲第5番ハ短調作品67。八分休符の音なき音から始まるフレーズは曲全体のモチーフだ。とくに古典は作品番号で呼ばれ題名が最初からあるわけではない。「運命」も後々にネーミングと曲がセットで自然と広まった。副題の印象が強すぎると先入観なしに作品に対峙したい人には厄介である。しかし同時期に並行して作曲された第6番へ長調作品68「田園」は自身で楽譜にタイトルを書いた標題音楽である。1808年12月ベートーベン自ら指揮をした初演プログラムは「田舎の生活の思い出」と名付けられ、初演の『ウィーン新聞』の公演広告にも記されているそうだ。田舎の自然の風景や生活を音楽で積極的に描写しようとした。
作品番号で名づけられ分類されるクラシック音楽だが、たとえば音楽会のプログラムでは次のように紹介される。作品番号、調性、拍子、形式など整然として、また補足した一つ二つの曲の逸話が何気なく作品の自立を支えている。動物や植物のように整然と分類されまず名前が付けられると音楽であってもまずは市民権を得る。
交響曲第3番 変ホ長調「英雄」作品55
第1楽章 アレグロ 変ホ長調 4分の3拍子 ソナタ形式
第2楽章 アダージオ ハ短調 4分の2拍子 葬送行進曲 小ロンド形式
第3楽章 アレグロ 変ホ長調 4分の3拍子 複合3部形式
第4楽章 アレグロ 変ホ長調 4分の2拍子 自由な変奏曲の形式 パッサカリア
演奏される曲の選曲自体がまず批評的である。演奏された音楽もまたその出来次第で批評の対象になる。比較対象となる演奏が数多あるからだ。同じ曲でも演奏家が違うと平凡にもなり逆に名曲にもなる。作曲家の評価、作品の評価また演奏された曲の評価、演奏した者の評価と批評の対象は限りなく拡がっていく。また時代背景や国家、民族性などと音楽との関係などにも派生する。
演奏自体の技術的な面を含めた評価は評論家や批評家のことばが頼りになる。自分で感想を言おうとしても、いいとか悪い程度の相手にうまく伝えきれないことばしか浮かんでこないのだ。管弦楽の演奏は形而上でありどのように感得していいか受け止めていいかも分からない。
ところで、標題がつけられていない曲はどのように捉えればいいのだろう。どのように語り継がれ演奏し続けられているか。ベートーベン交響曲第7番は標題やタイトルがことばにできない一例だ。音楽が深淵すぎて一言ではなかなか形容できない曲である。演奏者にも聴取者にもインスピレーションを多く与える交響曲第7番は映画やコマーシャルなど多くの場面の挿入曲として映画監督や映像作家に一部のフレーズが使われている。それぞれ独立した作品のある場面で共通して同じ曲がBGMや場面の重層の効果が期待されている。
それらを集約した記録がウィキペディア(Wikipedia)にある。どのような場面でこの曲が使われているのかを集めて鳥瞰すると曲のもっている共通性が垣間見える。言い尽くされた批評とは別に具体例の積み重ねもまた実証的な評価である。
映画や映像にBGMや曲をのせるのは効果音とはまた違って趣や色を添えるので場面の表現にはなくてはならない形容の音として捉えることができる。その一場面にストーリー性を付与するので、目にし耳にする受容者の感性、内省的な化学反応に委ねる表現方法として機能する。音楽や効果音は深層の記憶を想起させる魔力がある。また、それぞれの時代を映す音楽は時代の投影だしその時代に好まれる音楽や作られる音楽は時代の要請で生まれたものである。ベートーベン交響曲第7番は感性の中でもとくに精神性に訴える何かを想起させる力を内包する。
ベートーベン交響曲第7番2楽章、ことばによる紹介を試みる。
アレグレットは後世に標題を持たない第7番の中でも「不滅の2楽章」と評される。天の啓示を主旋律とするならば、対旋律の内声部、中低音のリズムは漆黒の小宇宙の黙示録か。人類の体内に宿る遥か彼方の記憶の断片が想起される。微視的な顕微鏡の中にこそ壮大な宇宙空間が広がっている
ことばは具体性を求める方向と抽象性を求める方向の双方に向かうようだ。ことばによる写生は受け取る側の想像力との共同作業のようで描く方も話題を投げかけるまでにとどまってその着地点を読者に委ねる。芸術家の権化のような岡本太郎、そのお母さんの小説の情景描写より次の文章はデッサンのようでいつでも読みながら立ち止まってしまう。
春先の小川の風景の描写である。絵画でも見ているような文章だ。このように自分でも目の前の場面を文章にして表現できるだろうか。相手に伝えたい風景を言葉で伝えきることができるだろうか。文章を書くには修業がいるが,自分の言葉で風景を描けるかという意識を持つだけでも見方が変わってくる。表現という視点から書く前段階として,問答を繰り返して書かれている内容や設問をひもといていく。聞くというよりは考えていること感じたことを,むりやりに引き出していく。語彙力が不足していれば周辺の言葉で補って説明させる。表現したいが言葉が追いついてこないだけだ。相手に文章で伝えるには,書かれた文章が自分の分身として伝えきれなくてはならない。書いた言葉は自分の分身である。
言いたいことは言いなさいと言うが、ほんとうに自分の言いたいことを「ことば」で言い切れるのだろうか。言いたいことを整理するために何となく言いたいことの周辺を〝ぐるわ〟を言っているのか。読んだり聞いたりしていても半分も読めていないし聞いてはいない。途中で書いてあること聞いたことに反応して自分で言いたいことが次から次へ湧いてきてしまうからだ。映画だったらお構いなしに進行してしまうのでどんどん諦められる。音楽だってそうだ。勝手に曲は進行する。
川端康成文学賞の町屋良平『私の批評』の次の一文がとても印象的だった。
「ことば」とは何だろう。動物や鳥など怒鳴りあっているように聞こえてもそれが音やリズムの意思疎通であればそれはそれなのだろう。動物と人の違いは「火、道具、ことば」とは云うが、かえって「ことば」で表現できればできるほど相手とのすれ違いや齟齬が生れてしまうこともある。猫のように甘えて擦り寄って来るときもあれば猫自身のペースで涼しい顔を見せることもあるほうがかえって周りの方が気をつかうのでスムースな関係性を保てるのかもしれない。とにかく母親にこんなことを言われたら相当に切ない。こんなことを言わせてしまった自分自身を責め続けることになるのは誰でも勘づく。だから一歩離れて小説にして、さらにもっと離れて批評したのだと。もっともっと甘え上手になれば、甘え上手を演じればいいのにと思うが人はそれぞれ感じ方やこだわりのポイントがあるのでわかっていても外野から見守るしかない。
それが自分自身の相手との距離感であり人は誰もがそれぞれ違ったこだわりを持ち、それぞれ違った相手との距離感で生きている。
今日も夏の日差しが強い。雑踏で自分とすれ違う人は接点があるようでいてない。前にもすれ違ったことがあるのかもしれない。ましてや螺旋のように渦巻く記憶の奥底ですれ違う人とはいったい誰なのだろう。