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不満足なソクラテスよりも満足した豚になりたい

満足できるのは、視野が狭く、自分に見えている世界が狭いから。

それは間違いない。

でも、見えている世界が狭いほうが幸福なのではないか。
最近よくわからなくなってきたので、そのモヤモヤを言語化していこうと思った。

2021年上半期

この半年間、ありがたいことではあるが、
時給で数百万円の単価を誇るようなあり得ないほど頭がキレる上司に日々揉まれ、スーパーエリートな同世代の仲間に恵まれるなかで、
自然と視座が高く、チャレンジ精神旺盛で、目が光り輝いている人が周りに集まってくるようになった。
東大首席とか経産省官僚とかハーバードの先生とか数十億の起業家とか。

ただの医学生である自分には圧倒的に場違いである、世間的にすごいと言われる人たちの世界。
その世界では、他の人よりもいかに優れた目標を持ち、ユニークでぶっ飛んだ実績と経験を積み重ねてきたかといった勝負になる。
そして、優秀でないと思われるようなしょうもない質問や回答をすると
一瞬で見切りをつけられるため、常に気を抜けない世界。
リラックスしながらも張り詰める独特の緊張感。

実績も経験も何も無い僕は、面白いストーリーも語れなければ、他の人に誇れるようなすごいビジョンも持ちあわせていない。
自分の中の基準や視座の低さを痛感し、自分の自信や成功体験は全て尽く否定され、すごくしんどい半年間でもあった。

はたして、自分はこんな生活を一生続けていくのだろうか、と疑問を感じるようになった。

2021年8月

そんな中、到来した夏休み。

大学の実習とベンチャーでのインターン業務で毎日手一杯の日々から解放され、普段まったく触れることのできないような自然に触れたいと思い、
合掌造りの世界遺産集落である五箇山地域の相倉集落を訪れた。
(以下、無修正の写真)

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そこで感じた、圧倒的なカルチャーショック。
大学に行く人はほぼいない。医学部が6年制であることも知らない。
夜、外に出ると、街灯はほぼなく、満天の星空とカエルと虫の大合唱。
時間はゆったりと流れ、macbookで作業をする僕を物珍しそうに眺める。
山菜と川魚がふんだんに使われた食事を囲炉裏を囲んでいただく。

ふと、過去を思い浮かべた。
僕の周りは幼少期から毎日習い事づくめ。
中学受験の塾に通いやすい進学小学校にお受験し、中学受験のための塾に上のレベルで入塾するための対策塾に通う、とかいうわけのわからない構図。
塾以外に家庭教師もつけつつ、なんとか兵庫の名門、灘・甲陽へ進学し、
鉄緑会で受験モンスターとなって医学部or東大を目指す。
小さい頃から子供一人当たり月々40万円近く教育費がかかるのはザラ。
僕が育った芦屋という街は、そんな場所だった。

子供の幸せを願った親のおかげで、
小さい頃から習い事で予定ガッチガチにブロックされタスクをこなすように幼少期を過ごす子供達には、そんなのんびりした世界があるなんて想像もつかない。

これは、あくまで部外者からの判断の範疇にとどまるが、
そんな競争社会で生活をしていなくても間違いなく五箇山の集落の方々は
幸せに充実した毎日を過ごしているように感じた。

気づき

だからこそわかった。
満足している状態は、幸せなのだ。
過去を振り返り自らの軌跡を省みて幸せを感じることは可能である一方で、
満足をしないで現在に幸福感を感じることが難しいと知った。

だからこそ、あの有名なミルの「功利主義論」の有名な一説が頭をよぎる。
"it is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied."

あくまでこの資本主義社会で出世するには欠かせないマインドセットであることは疑いようのない一方で、
本当に人間として幸せである状態は、
満足した豚であり続けることなのかと感じるようになった。

とはいえ、言語化はできていなくても頭の中に明確にやりたいことがある中で、現時点で満足した豚に成り下がるのは、成長速度の鈍化に繋がり、得策ではない。自分は結局競争社会から逃げ出す勇気がないのだと思う。
いつ満足した豚になるかこれからずっと考え続けないといけないのだろう。

それでも、いつかは満足した豚になりたい。
そんなささやかな願いが生じた夏休みだった。

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