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体型というコンプレックス。

私は昔から、“太っていること“をずっと母から気にされてました。制限するように口うるさく言われていました。
確かに、中学生になった頃、腰回りが大きくなり、入るジーンズを見つけるのが大変でした。けれど、標準からかけ離れている体型ではありませんでした。
そして、私自身は正直、“痩せよう“という気持ちになったことがなかった。

“自分は気にしていない“けれど、食べることに関して、声をかけられる度に『太っているからだめだ』と言われているように感じるようになりました。
母にとっては『恥ずかしい存在』なんだろうなって。
そう思うようになってから、母以外の人からも、体型のことで“心ない言葉“を言われるようになった。

言われることが嫌になって、「私はやっぱり太っているんだ」と思うようになってから、みるみる太っていって。今では、中学生や高校生からは信じられないような体型になった。

とっても悔しいことがあって。
先日、GWで帰省した時。
母が昔の私の写真を見て、『細っ!』って言ったんです。
言葉が出ませんでした。

今の体型に比べたら、細いのはわかる。
けれど、『私の傷ついた心は?』と思ってしまった。
呆然としてしまって、イライラすることもできなかった自分にまた、悲しくなった。

実はこれを何度も繰り返している。

正直、なんだか“理不尽“に感じて。

その時に思ったのは。
私は、まだまだ“母の理想の娘“でいられないことに、×を出し続けている。
自分を認めてあげたいのに、認めきれていない。
母のせいにしたって何も解決しないことがわかっているから、また苦しくなる。

そして、心のどこかに“変わりたい“って気持ちがあるから、また、この気持ちに触れるのがしんどいんだろう。
“変化“を恐れている自分がいるってことにも気がついているから。

私自身が、今の私に、“そのままでいいよ“って許可が出せていないんだろうなぁと感じる。
“そのままでいいよ“って言ってあげられなければ、“自分はダメだから“という理由で自分を変えようとしてしまう。それは嫌。それが、どれだけ“頑張り屋な自分“を引き出して、“自己否定“をし続けることになってしまうのがわかるから。

じゃあ、どうしたらいいだろうって考えた。

今までは、“母に認められる必要はない“という視点でこのことを観てきたように感じる。この現実を、結局は、『母』という存在を通して観てしまっていた。

だから、自分に『私はどうしたいの?』と問いかける。

私はね、元々、おしゃれが大好き。
可愛いワンピースとか集めるの好きで。買い物をしている時間が、“至福の時間“だった。その服が並んでいるラックを観てまた、『はぁ〜可愛い…❤︎』ってときめく時間が好きだった。お気に入りのモノは、ずっと飽きずに着られた。心から、“ワクワク“が生まれる選択をしていたのだと思う。

また、大好きな服たちに囲まれて。
それを着こなして、“笑顔“で“幸せいっぱい“になって。
その笑顔と幸せをまた別の誰かと分かち合う。
そんな未来の自分が想像できた。

私は、“私が好きな私“でいる。
私の一度きりの人生。“好きな自分“で生きる。

コンプレックスって、色々な人たちからの言葉だったり。
例えば、テレビでの情報だったり。
知らず知らずにうちに“持ってしまっているモノ“なのかもしれない。
しかも、何気ない一言だったりもするんだよね。

私には、確かに母から言われた言葉の数々という、明確な記憶があるけれども。
あの頃の自分は、それを受け入れるしかなかったんだと思うんだ。そういう選択しかできない自分だったのかもしれない。

嫌だったモノは、嫌だったモノとして、持ってたっていいよね。
全部解決しなくたって大丈夫。
自分で選択するってことができていればそれでいいし、自分のリクエストに応え続けていけば、いつか薄れていくだろうと思う。そして、塗り替えられていくだろうと思う。

母の“価値観“を変えることはできないし、する必要もない。
母に“認めてもらう必要“もない。
“戦う“必要はないのです。

私は“傷ついた幼い私“を、心の中でぎゅっと抱きしめて、愛すことにする。
そしたら、今の私ももっと愛すことができるから。
“傷ついた自分“を癒すために行動して、“私探し“を続けていく。

“自分“に戻ることができれば、迷子になっても大丈夫。
“今“を見つめて、“過去“の自分を許そう。

かわいくなることを、許可して。
コンプレックスにこだわる自分と少しずつ、さよならしよう。

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