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私はどうせ誰からも愛されないし、愛せない。

中学生くらいになると、恋愛することとか、彼氏彼女ができることとか。
色々、考え始める年頃。
中学生くらいの頃から、漠然と『私には恋人なんてできないだろうな』って気持ちがありました。

私にとって、“誰かを好きになる“っていうことが、とってもこわいことだった。
恋愛に“前向きな気持ち“なんて持つことができなかった。

それでも、中学3年にもなったら、「彼氏の一人くらいいないとおかしい」と思っていた。自分の“感情“なんてどうでもよかった。周りの人と自分を比較してた。よくわからないまま焦ってた。好きなのかもよくわからない、男友達と付き合って。『好きなふり』をしていた。

今思えば、最低なやつ。

『自分と付き合ったところで、相手は何を得ることができるんだろう?』
『私も好きじゃないけど、相手もどうせ好きじゃないんだろうな』
って気持ちのまま付き合っていたって、そんなの“楽しい恋愛“ができるわけなんてなかった。

その彼氏とはすぐにうまくいかなくなって別れた。

高校生になってからも、そういう…『自分なんて』って気持ちを抱えていて。
それでも、恋愛は“しようとする自分“がいた。
その度に、傷付くような出来事が増えた。自分が自分を否定している状況の中で、相手や周りから心無い一言を言われたりすることも増えた。

大学生になって。
自分に好意を持ってくれる人が出てきて。デートに行ったりした。
“相手の気持ち“がはっきりわかっていたら、“自分を好きになってくれるなら“、私も好きになれるのではないだろうかと思った。

それでも。だめだった。

誰かから、“女性として扱われる“ことが気持ち悪かった。
好きになってもらったところで、相手が“自分といるメリットなんてないだろう“と思っていて。
その人を好きになれる気がしなかったし、どんなに言葉や行動で示してくれたとしても、その気持ちを受け容れることはできなかった。

実際、自分に“恋愛感情“があって。もう少しで交際開始ってところまできても、最終的にその相手を“拒否“している自分がいたんだ。
うまくいっていると思っていても、“自分の素“が出た瞬間に、「あ、やってしまった」と感じて、その瞬間から、気持ちが冷めていく自分を感じてた。

こんなんじゃ、私に“恋愛“なんて一生無理。

大人になってからは、完全に諦めた。

『私は人を受け容れられない。愛することもできない。』って。

“素敵な人だな“と思っても、その気持ちはなかったことにして、蓋をしておく。

そして、最終的には。
近くにいない、遠くに住んでいる男友達に精神的に依存し続けた。

その人のことは、本当に大切で。
自分の本音を、悩んでいることをいつも受け止めてくれる存在だったし、相手の話もよく聴いていた。
泣きながら、何度も話した。
“私のことをわかってくれるのはこの人しかいない“って思い込んで。
何度も何度も、助けを求めていた。
相手に都合よく扱われていても、気が付かないくらい。
いつの間にか、自分から連絡した時はあまり反応が無いのに、相手の連絡には都合よく答える、“都合のいい女“になっていたことに気が付いた頃には、8年の月日が流れていて。

自分の本音を曝け出せていた相手との、この関係が“依存“なんだとしたら、本当の“信頼関係“ってなんなの?

誰かと“一緒に生きる“ってなんなの?

“好き“とか、“愛“ってなんなの?と苛立ちさえ覚えた。

なぜ、私にはそれがわからないのか。
ものすごく苦しかった。

私はこの“依存“を手放すことにした。
手放すまでには、相手に対する“期待“とか。自分の“都合の良い解釈“で誤魔化そうとする自分とか。
“依存“ではあっても、根本に“好きな気持ち“もあるってことに気が付いたり。
たくさんの葛藤をして、たくさん泣いて。
“悲しい“を存分に味わった。

自分と向き合うという行動の中でも、この時が1番、しんどかった。

この“依存“や私の恋愛が意味することってなんだろう?って考えてみた。

私には“あるモノ“が見えていなかった。

家族にもらっている“愛“とか、周りの友だちや職場の仲間からもらっている“思いやり“とか、“親切“に全然、目が向いていなかった。受け取る以前の問題。見えてすらいなかった。

そう。自分を“否定“しかしていなかった。
私の場合は、どこで“否定し続ける“というスイッチが入ったのがいつなのかわからないくらい、物心ついた頃から、“否定“し続けていた。

きっとさ。自分の“素直な本音“を押しつぶした時点で、“否定“は生まれるんだろうね。

自分がなりたい自分と、人が求める自分は、全然違うモノだったりして。

人とわかり合うために、自分の“嬉しい“も“悲しい“も押しつぶして、相手の気持ちに合わせていたら、そうなってしまうよね。

今までの恋愛。
私は、いつも。“相手の気持ちは自分に向いているのか?“しか観ていなかったような気がする。

“自分の気持ち“はどこにいったの?

いつから、自分の“好きなモノ“を好きって言わなくなってしまったんだろう?

本当に小さかった頃は、絶対に言えていたはずだよね。

“依存“していた自分と結局、さよならしたんだけど。
その時ね、自分の本音を相手にぶつけて、伝えるってことを初めてしたの。
相手から、“返ってきてほしい答え“なんて返ってこないし。
返事も待たされたり、先延ばしにされた。
最初は、「今は考えているんだろう」くらいに思って、待っていた。
けれどね、ふと…「あとで返信する」の一言もなく、いつまで待たされるのか“わからない返事“を待っていることに“疑問“を感じたの。
私にも、“大切にされたい“って気持ちはある。
“大切にしてもらえてる“って感じる感覚も人それぞれ。
それぞれ違うのだから、「私に合わせて」なんてもちろん思わない。
お互い、すり合わせて、寄り添っていくことは必要だと思う。

私なら、“真剣な想い“を伝えてくれている人に対して、“誠意“を持って対応する。
自分だったら、絶対にそうすると思った。
実際に、そうしていた。

そういうことか!って思った。
この時に初めて。“自分を心から大切にしたい“と思えたんだと。

自分を大切にするって。選ぶってことなんだよね。
選んでいいってことなんだよね。

はっとしたよね。

“相手がくれるモノなら、全部受け容れる“っていう私のスタンスが、自分を“不幸“にしていとうことだった。

今は、『選んでよかった』と思っている。

どんな“別れ“であったとしても、共にしてきた“時間“とか。
確かに“もらったモノ“があって。だから、“別れ“は悲しいんだけれど。
相手を傷つけたかもしれないけれど。感謝もしている。
この人に出逢えなかったら、この選択をする私もいなかったのだから。
この選択に後悔はない。

なぜなら、“依存“することをやめたら。
自分に今、“あるモノ“がちゃんと観えてきたからだ。

まだまだ、“好きな気持ち“を受け容れることを、こわいと感じることはある。
けれど、“確かに大切な気持ち“が芽生えつつある。

私は“愛されない“し、“愛せない“って33歳まで思い続けていた私が、今は“大切だと思うモノ“があって。微かに、“愛したい“という気持ちを持つことができている。

“愛は選択“であり、“自分を大切にすることも選択“であるということを、ずっと忘れないでいたいと思う。

愛することも、愛されることも全てが選択するということ。

あなたは、どのような“選択“をしますか?

自分の人生。自分の“愛“なのだから、選ぼう。

こうやって文章を書いていたら。
“感謝“が溢れてくる。“愛しい“という気持ちが溢れる。

目の前にいる、大切な人たちと一緒に“選ぶ人生“にする。
そして、“一緒に生きていく“のだ。

今日も、私の心の中にいてくれて、ありがとう。

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