ポット

 ポットのお湯を切らさないでくださいと彼女は言った。
 お湯ですか。
 ええ、お湯です。
 なぜですか?
 質問をしてはいけません。あなたに許されているのはポットのお湯を切らさないようにすることだけです。
 わかりました、と私は白いポットの蓋を開けて水を注ぎ始めた。一面の空白のなかで、とぷとぷと溜まる音だけが揺れている。

*

 ポットのお湯について考えてください。そうしている間だけあなたはあなたたることができます。そして私もまた私たることができるのです。
 彼女はそう言ったが、そもそもここには彼女と私とポットと水しかない。私は水ではない。私はポットではない。私は彼女ではない。今日も私は水を注ぎ、ポットは湯気をたてている。

*

 初めにポットあれ。彼女は宣言した。ポットが存在するからには中に溜める水が必要である。水を注ぐのは人の手である。そうしてあなたが生まれた。そう彼女は述懐した。
 どうして貴女が注がなかったんだろう。
 それは質問ですか? いいえ、単なる呟きです。
 どうして私が注がなければならないのかしら。
 それは回答だろうか。いいえ、単なる独り言です。
 さて、彼女はどこから来たのだろうか。

*

 真白な空間にぽつんとポットありけり。野山もなければ竹もなし、万のものがなかりけり。
 ポットから湯気が立ち上る、湯気の進む方を上と規定する。さすれば自ずとポットの底は下となる。ポットの注ぎ口を前とすれば、反対側が後ろとなる。
 かくして世界は我が眼前に小ぢんまりと屹立し、私は座標(1,0,0)に立ってネガティブ方向にポットと対峙するのであった。

*

 熱とはエネルギーの残滓であり、つまりポットでお湯が沸くならばそれ即ちエネルギーを消費しているに他ならない。
 当たり前じゃないですか、と彼女はつまらなさそうな眼差しを寄越す。
 何のエネルギーがどこから供給されているのだろう。
 彼女はぴっとひとさしゆびを立てた。見上げれば虚空に数字が6桁、音もなくカウントアップしている。
 それからその数値を記憶することが私の日課になった。今日は、3142656.

*

 私はポットに水を注いだ。水は蛇口を捻れば出てくる。蛇口とは口の部分であって、それでは捻る部分は何と言うのだろう。
 知りません。
 蛇口があるなら水を引く水道管もある。水道管は遥か彼方から伸びている。どこに繋がっているのだろう。
 さあ……。水道管が見えなくなるところが地平です。
 あの向こうに彼女ですら知らない水源があるのだろうか。

*

 宙空の数値がカウントアップしない。
 ポットに水を注いだがお湯が沸かない。
 蛇口を捻ったが水が出ない。
 ポットを調べようとしたが動けない。
 私に話しかけても返事がない。
 そうなったらどうします?
 少し考えてみたがうまくいかなかった。なぜなら今日もいつも通り蛇口を捻れば水は出るし、ポットに注いでお湯を沸かすし、虚空の数値はカウントアップするし、彼女と私は独り言をすれ違わせるからだ。
 そう言うと彼女はいつものつまらなさそうな表情を浮かべた。
 そんな76584185の日。

*



*

 ポットのお湯を切らさないでくださいと彼女は言った。
 お湯ですか。
 ええ、お湯です。
 なぜですか?
 質問をしてはいけません。あなたに許されているのはポットのお湯を切らさないようにすることだけです。
 わかりました、と言って私は長いことポットに水を継ぎ足し続けている。
 虚空の数値は9223372036854775807で止まってしまった。
 彼女はもういない。彼女は本当にいたのだろうか、と声に出すも、独り言は返らない。

*

 ポットのお湯について考えてください。そうしている間だけあなたはあなたたることができます。そして私もまた私たることができるのです。
 そう彼女が言ったかどうか定かではない。二つの指標を失った私の記憶は空白に塗り潰されつつある。ここには私とポットと水しかない。もはや最後の指標すら疑わしかった。お湯について考えていようが、彼女は彼女たることができなかったのだから。
 それでも私は今日も水を注ぎ、ポットは湯気をたてている。他に方法を知らなかった。

*

 水が止まった。
 錆びた蛇口を捻っても何も出てこなかった。水道管もすっかり錆びているので、地平線のあたりで漏水しているのかもしれない。
 私は膝をつき、かさかさに乾いた手でポットに触れた。持ち上げると世界の裏側に「終了しますか?」というメッセージを見つけた。ここはとうの昔に忘れられていたのだ。いいえ。かすれた声で呟いてポットをもとの位置に戻す。
 私はひとさしゆびでゆっくりと注ぐボタンを押した。湯気と共に、ピンクと赤と黒の混じったどろりとした肉の塊が落ちる。ぼたぼた、どぼどぼ、勢いを増して、指を上げても止まらない。吹き出した肉に飲みこまれ、私もまたその一部と化し、思念だけが座標上に立ち上がった。
 探しに行こうか。
 (1,1,3)に浮遊しながら思う。広がる肉の上で輪郭を走査する。ポットを中心としてなだらかに傾斜した丘の縁を、水道管がぐるりと取り囲んでいた。それが地平線だった。
 肉塊はとめどなく溢れ続けた。やがて空白は埋め尽くされ、果てから反湯気方向へと流れ落ちた。瀑布は白い世界を肉色に浮かび上がらせる。ボタンがあり、蓋の開閉軸があり、注ぎ口がある。それは巨大なポットの形をしている。
 1……2……。
 私は虚空に値を浮かべて数え始める。
 15……16……。
 初めにポットあれ、と誰かが言った。
 127……128……。
 ポットが存在するからには中に溜める水が必要ね。
 255……256……。
 どうして私が注がなければならないのかしら。
 1023……1024……。
 やがて巨大な手がポットの蓋を開き、
 肉塊はポットの中へと吸い込まれた。

* SPACE ID:418755 go to next POT...? (Y/N)

#文章 #ポット #よくわからないもの

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