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彼女の宇宙 その1

 土星の輪っかで指先を切ってしまって、それも自分で思っていたより盛大に、その肉片からアンドロメダ銀河が見え隠れしていたので、しまった時空が、とかなんとか思って慌ててくっつけたんだけど、私はお医者さんではないし物理学の偉い学者さんでもないから、傷口は揺らぎっぱなしで境界はあいまいだった、
 さよなら、アンドロメダ銀河、
 さよなら、土星、さよなら太陽系。
 さよなら、よりもまたあした、あしたはあさってではなかった、そんな話をどこかで聞いたけれど、なにぶんにも私の中はこんなにも広くなってしまったし、今も知らないところで膨張し続けているので、探さなくてもいい、それは私が覚えているという、そのことだけで私の中のどこかにあって、それでよかった。
 のらりくらり考えているあいだに海王星が見えてきて、なんてこと、私はフォークを忘れてしまっていた。海王星といえばケーキ屋さんで、サバランが有名、というのを雑誌でチェックしていたのに、リキュールのしみたスポンジの味がなんとなく大人になったような気がして好きだった、駅前のネプチューンのサバラン、でももう通り過ぎてしまった、また今度来よう、またいつか。
 オールトの雲ってつい口にしたくなる、彗星のおうち、そこはとても暗くて寒い、太陽に憧れて長い旅に出かける、ほうき星という名の雪だるまたち、自分のからだを削りながら、自分のかけらをばらまきながら、それが地球にぶつかって、空気と擦れて燃えて、地上で流れ星って呼ばれて誰かが歓声を上げる、それって素敵なことね、と乾いた声でつぶやく。
 地球、地球。私の故郷。なんてちっぽけになってしまったんだろう。
 太陽系を出て、隣の星系も、銀河系も出て、隣の銀河も横目にすぎていって、私の故郷の惑星は、もうたぶん私のくちびるのあたりにある、細胞の中のミトコンドリアとか、もっと、DNAとか塩基配列とかいうのの一つになってしまった、
 私はくちびるにふれる。
 ここで触っている指は、触られているくちびるは、いったいなんなんだろう、私はここにいるとおもっているけれど、本当はどこにいるんだろう。
 くちびるの奥の奥の小さな地球で暮らしている人たちは、私のことをおぼえているだろうか。
 お父さんお母さん妹、おじいちゃんおばあちゃんおじさんおばさんいとこのみきちゃん、ゆっこなっちゃんかっつんはじめ学校の友だち、担任の近藤センセ、みんな、おぼえているだろうか、私は地球が丸ごとくちびるの一部になってしまうくらいおぼえているのに。
 あの子だったらもしかしたらおぼえてくれているかもしれない、私がこうなる前に隣の席だった男の子、高校入って二年連続同じクラスで、三回も隣の席どうしだったあの子は、おぼえてくれているかもしれない。
 でもどうしてだろう、私は、あの子の名前が思い出せない。
 あの子がくれた言葉を思い出すことができない。
 放課後の教室で、なんか帰るのがもったいなくて一人で残ってたら、あの子が入ってきて、なんだまだいたのかって言って、私はなんて答えればいいかわかんなくてばかみたいにへらへら笑ってた、あの子は私の隣の机の中からノートを取り出して、忘れたんだって、別に聞いてもいないのに言い訳みたいなこと言った、それから少しためらうみたいにしたあとで、
「なあ、アマノって、明日行くんだろ。明日、宇宙になるんだろ」
って言うから、私はうなずいた。
 アマノはすごいな、宇宙になるとか、すごいよ、ってあの子は言った、すごくなんかないよ、私はとっさに大きな声を出してた、自分でもびっくりするくらい大声で、すごくないよ、みんながすごいとか、大丈夫とか、気をつけてとか言って、私はそのたびに大丈夫とか、ありがとうとか笑って答えてたけど、ぜんぜんすごくないよ、やっぱりすごい不安だよって、何言ってんだろって思いながらまくしたてた。
 そうしたら、あの子は、
 あの子は、私に、
 あの子は、なんて言ったんだろう。
 がんばれとか、大丈夫だとか、そんなことじゃなくて、
 思い出せないけど、なんとなく、私の友だちの中で私のことを考えていてくれたのは、もしかしたらあの子だけだったのかもしれない、あの子だけが私の友だちだったのかもしれない、とか思う。
 でもその唯一の友だちの名前を私は思い出すことができない、私は、こんなにばかでかくてすっからかんになってしまった! 本当に大切なことも、おぼえておきたいこともなくしてしまった!

 どうしてだろう。
 私は、
 本当は宇宙になんかなりたくなかった、今年の夏はプールに行って海に行って遊園地にも行ってめいっぱい遊んで、秋の文化祭でうちのクラスは模擬店をやる予定で言いだしっぺだから頑張ろうとか、ひいひい言いながらテストを受けたり、来年は受験だとか言って焦ったり、そんなふうにふつうに高校に行って、卒業して、何やりたいとかぜんぜん考えてないけど、大学に行けるなら行きたいし、仕事にも就けるならつきたいし、好きな男の子と話したり、買い物したり映画館に行ったり水族館に行ったり、ゆくゆくは結婚して、みたいな、そんなふうになりたかったのに、べつにアイドルになりたいとか世紀の大発見をして有名になりたいとか極道の妻になってスリリングな人生を歩みたいとか全然なくて、ただふつうに、すこしだけ幸せに生きていけるならそれでよかったのに、
 どうしてだろう。
 どうしてわたしは宇宙になってしまったんだろう。
 どうしてどこにいるかもわからないみたいなところに一人ぼっちで浮かんで、たくさんの星とか、まっくら闇を見つめているんだろう。
 どうして大切なひとや、そのひとがくれた言葉を思い出すことができないんだろう。
 どうしてだろう。


#小説

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