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女の子になりたい。

 春か夏か秋か忘れてしまった。今と同じような寒い冬だったかもしれない。何しろ年がら年中、理科実験室でゆるい会話に花を咲かせ、凡庸からほんの少しはみ出す程度の悪業に熱中していたので、季節は写真のように断片的にしか残っていない。窓の外は秋の夕暮れ。中庭の木々は初夏の青。正門の隣だけ満開の桜。いつでもない教室で彼は呟く。
「どうしてこんなにも違うんだろう?」
 その声は、思い思いの話が波立つ浅瀬でわずかに揺らぎ、岩に当たって砕けてしまった。あてられた岩もまた、自身にひびが入る感触を、その音をはっきりと聞いたのだった。
 私はただ困ったみたいに笑んでいた。彼と同じように。角張った顔に短く刈った髪、小さな目。どちらかというと強面で、体格がよければ柔道か何かをやっていそうな雰囲気。それでいて小さいもの可愛いものが好きというアンバランスさ。絞り出された言葉は、どこか諦めをにじませて切に響いた。
 中学の頃にラジオで知ったU.K.ロックバンドが脳内で歌い始める。being a girl というそのまんまのタイトルの曲。女の子になる、女の子になる、そうすれば僕の人生はずっと素敵なものになる。
「ときどき、ひげを剃ってみたいと思うよ」
 ええ、と彼は眉を寄せた。こんなの鬱陶しいだけだよ。うん、だからときどきでいい。私は笑う。
 つけっぱなしになっていたテレビで、偶然目にした映画のワンシーン。女のひとが、手を動かせなくなった彼のひげを剃っていた。最後まで観たけれど印象に残っているのはそのシーンだけで、もうタイトルすら思い出せない。

 友人の式で久しぶりにみんなと会い、照れくさそうに子どもの動画を再生する彼を見て、そんなことを思い返していた。きっと優しくて面倒見のいいお父さんなんだろうなと頬が緩む。同時に、彼がかつて抱いていた葛藤との訣別に思いを馳せ、寂しいような複雑な気分になった。そのがんじがらめになった感情は、彼と共有していると思い込んでいた、私自身のものでしかない。
 当時もよく話したわけではなかったし、卒業してからはほとんど会っていなかった。きっとこれからも深く付き合うことはない。それでも私は他のみんなとは違うところで彼を信頼してしまうだろう。
 私はきっとこの先も抱えていくだろう。顎に生えるひげの感触や、低い声、骨張った体躯。願いは叶えられないし憧憬は消えない。もし雪が溶ける日が来たとしても、景色は薄汚れ、べたべたと落ちる霙を見下ろし泥濘に沈むのだろう。
 果たしてそんな日が来るのだろうか。当分は音のない、白く明るい夜道を歩んでいくだけだ。

#文章 #拾った手帳

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