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黒檀

 サークル棟と、生協と、図書館裏の喫煙スペースを結んだ三角形の内側が私の縄張りだ。残念ながら造形棟はその外側にあるため、足を伸ばすことは許されていない。四回生での留年一年目はなんだかんだ言っても気楽である。単位のためせこせこ一限の必修に出席することもなく、昼に起きて生協で飯を食らいサークルに顔を出してカードゲームに興じた挙げ句バイトの時間まで図書館裏で煙草だってふかせる。自由。自由とは、人生を切り売りして手に入れる暇のこと。
 自由だから、図書館まわりにたむろする猫たちと顔見知りにもなれる。大学敷地内をねぐらとする彼らのほとんどは、学生の昼飯を当てにして生きている。いい天気だから外のベンチでパンでも食べようか、なんてやろうものなら、次から次へと湧いて出るモンスターの格好の餌食となる。特に彼らの出現範囲は図書館付近に偏っていて、原因はおそらく裏手にある森のせいだ。
 図書館前の広場を斜めに突っ切る。途中でぶちとトラがたかりに来たので、ねえよ、と静かに一喝しておく。図書館の建物沿いに歩くと、森の手前に六畳くらいの空間があり、その真ん中にえんじ色の古ぼけた吸い殻入れが立っている。知るひとぞ知る喫煙スペース。なぜ森と図書館の間なんて明らかに火気厳禁な場所にあるのかわからないが、他に使うひとがいないのをいいことにたびたび利用していた。
 マルボロに火をつけ、青く高い空に向かってぷかあとやる。しばらくして、少し離れた木の下からこちらを見つめる二つの目に気づいた。黒檀だ。見つめ返していると、ふいにそっぽを向いて体を舐め始める。真っ黒に見えて実は深い焦茶色の毛。安直にクロとか呼ばれているその猫を、私は黒檀と呼んでいる。
 黒檀は人に媚びない。他の猫たちと違って、お昼ごはんを略奪するモンスターにはならないし、差し出されても決して近づこうとしない。もしかしたら昔なにかあって、人間が怖いのかもしれない。どうやって食いつないでいるのか不思議だけれど、大方ごみ漁りか、森でねずみでも捕っているのだろう。一度だけ、学生寮のごみ捨て場でツナ缶を舐めているのを見たことがある。他の猫より痩せてはいるが、その削ぎ落とされた猫体と、鋭い眼光がやけに色っぽい。群れず媚びずのしたたかな生き方もあって、私は黒檀が好きだった。
 そんな孤高の黒檀の休憩ポイントが、図書館裏の喫煙スペースだった。私たちはお互いに干渉することもなく、三メートルくらいの絶妙な距離を保って、ただ同じ空間を共有している。とはいえ、初めのうちは警戒されていて、黒檀はもっと離れたところにいた。私は去年からここを使っているが、黒檀はもっと前から縄張りにしていたのだろう。そう思うと人様の家に土足で上がりこんだような気分になり、途端に居心地が悪くなって、まだ長いままの煙草を吸い殻入れに押しつけて立ち去ったこともあった。
 しかしそれも、留年してからどうでもよくなってしまった。出られなかった卒業式の翌日にここへ来て、煙草に火をつけて、一口二口吸っただけで気づいたら短くなっていて、ぼんやりと曇った空を見て、少したってからまた火をつけて、そんなことを繰り返していたら日が暮れた。次の日、一週間、一ヶ月と時間だけがあっという間に過ぎていった。いつの間にか黒檀が以前よりも近い位置に座っていて、そのことに気づいたとき私は、ようやく許されたように感じた。自分本位な考えだということは重々承知している。けれど、この広い世界の、日本とかいう小さな島国のさらにちっぽけな地方大学の片隅で、一匹と一人がお互いの存在を認め合えているとしたら、私はそれだけで充分だと思えた。私の中のどこらへんが満たされているのかはわからないが。

*

 先輩、図書館のそばの喫煙所使ってますよね。
 ある日、サークルの部室で格闘ゲームをやっていると、後輩がごにょごにょと言った。大柄だが猫背、柔和な丸い顔にいつも困ったような表情を浮かべている男で、おとなしく気が弱そうな仮面の裏に、ねじれた精神と鬱屈した性癖を抱えた厄介な奴だ。さらになぜか私につきまとってくるのがこの上なく鬱陶しい。
 なに、ストーカー? 違いますよ、教室から見えただけです。勝手に見るなよ気持ち悪い、違うならなんでにやにやしてんの。もともとこういう顔なんスよ。というお決まりのやり取りを交わす。で、喫煙所が、なに。
「あそこ、来月撤去されるらしいッスよ」
 なんで、と思わず声が出た。いや、理由とかは知らないけど、この前本を借りに行ったとき図書館のおっさんたちがそんな話してたんで。後輩はどこか嬉しそうで、ああくそ、しまったと思う。動揺が顔に出ていたんだろう。またこいつのコレクションに一つ追加されてしまった。イライラするが蹴りたいのをぐっとこらえ、とりあえずゲームでぼこぼこにしてうさを晴らしておく。お前にこれ以上餌はやらん。頭の中で「来月撤去」が何度も繰り返されていてそれも癪に障った。
 一通りの遠回しなやり方で後輩に嫌がらせをしたあと、図書館裏に向かった。途中で、あいつの作り話なんじゃないか、という思いが湧いてきた。珍しい表情をゲットしたいがためについた嘘。あり得る話だ。そうするとこうしてあれこれ考えることすら踊らされているようで、なおのこと腹立たしい。それでも図書館入り口横の掲示板を確認すると、右下端にA4用紙が一枚貼ってあるのを見つけた。「喫煙スペース撤去のお知らせ」。内容は至ってシンプルで、構内完全分煙化の一環として撤去する運びとなった旨が素っ気なく書かれており、文章よりも余白が多いくらいだった。きっと誰も目に留めることはないだろう。留まったとしても、何のことかわからないに違いない。私の知る限り、あそこを使っているのは黒檀と私だけだ。
 喫煙スペースでマルボロをぷかあとやっていると、黒檀がやって来て毛繕いを始めた。えんじ色の吸い殻入れと、紅葉の始まりつつある森と、木陰の黒檀。その景色を見ていると、ここがなくなるなんて想像もできなかった。
 ふと校舎のほうに目をやると、三階の窓から誰かがこちらを見ているのに気づいた。年配の、助教授か講師だろう。勢いよくカーテンが引かれて見えなくなる。もしかするとサークルの後輩の他にもここを見ているひとがいて、私が使うことを快く思っていないのかもしれない。今回の撤去は、つまるところ私がここを使い始めたせいなのではないか。
 くさくさした気分で煙草の火を揉み消し、ゆっくり黒檀のほうを向いて、ねえ、と声をかける。背中を舐めていた黒檀は、うん? とでも言うように顔を上げた。
「ここ、なくなるってさ」
 黒檀はじっと私を見つめていたが、やがて毛繕いを再開した。ふーん、と興味なさそうな声が聞こえた気がした。なんだその自分には関係ないねみたいなのは。どうするんだよ、と呟くと、盛大なあくびで返事をする。お前ね、今はそんな感じだけど、来月になったらなんだこれって焦るんでしょ。こっちは自分のせいかと思って責任感じてんのに……呆れて溜め息をつくと、意外にもまっすぐな、逆に問いかけるような眼差しが返ってきた。
 しばし見つめ合ったあと、黒檀はぷいと姿勢を変えて、じゃあな、としっぽで言いながら森に入っていった。取り残された私は、煙草に火をつける気分にもなれず、少し迷ってから、半年ぶりに縄張りの外に出ることにした。

*

 翌日、私はいつものように喫煙スペースを訪れると、図書館の壁にもたれかかって地べたに座り、黒檀を待った。今日もよく晴れていて空が高い。日差しは暖かいけれど、風がやや強くて肌寒かった。吹くたびに、裏の森の木々がさわさわと葉を揺らす。煙草を吸わないで待つ時間は、やけに長く感じられた。
 木陰から姿を現した黒檀は、いつもと違う私の様子にちょっと警戒しているようだった。鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。なんだなんだ、と訝しげに様子を窺う黒檀に、思わず口元が緩む。スケッチブックを開く。久しぶりの紙の感触。黒檀を視界の端に捉えながら、鉛筆を走らせる。
 やがて慣れてきたのか、黒檀が毛繕いを始めた。柔らかく曲がる体、伸びた脚、それを覆う焦茶の美しい毛並み、舐めるピンク色の舌、細められた長い目、ぱっと何かに気づいて立つ耳、ぴんと張ったひげ。そのひとつひとつを焼きつけるように、白い紙面に描きこんでいく。
 そういえば、こうやって同じ目線で見たことなかったな。
 何枚か描いてみたけれど、どれもひどかった。半年以上のブランクはさすがに痛い。まあゆっくりやるしかないよね、とマルボロを一本取り出して火をつける。なにがだよ、というように、黒檀がこちらをにらんだ。その不機嫌そうな顔がおかしくて、煙を吐きながら思わず笑ってしまった。

(続きます)

#小説

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