春に
涙が止まらない。悲しいわけでもましてや嬉しいはずもない。ぬるい雨。靄の立ちこめる街。腐った臭い。駅前の広場の片隅に転がっているひとの形をした肉。血の跡は乾いている。真っ暗な眼窩から伸びる太い芽。またひとつ、横目に数えながら、イヤホンから流れる冬の音を聞きホームへと急ぐ。階段の途中にひとつ。改札のそばにひとつ。ホームに見える範囲でみっつ。ひとびとはスマホを覗きこみ、新聞や文庫本を開き、三分遅れの列車に無表情で吸い込まれていく。
涙が止まらない。マスクをした誰でもないひとびとは語る言葉を持ち得ない。そこかしこで聞こえるくしゃみは言葉が破裂して消える音だ。
冬の音は耳から入り脳内で結晶化して降りしきる。地面に触れては消え、触れては消える。積もれば蝕まれないという根拠のない信仰にすがっている。マンホールのふたを開けて暗闇に落ちていく途中で楔を打つ。縦穴にひびを入れるために。種子が発芽しないように。しかしその甲斐もなく穴の底は裂け、淡い光を溢れさせながら開いていく。紡錘形の窓から波が押し寄せる。眩しくてよく見えないが、窓の外では巨大な芽が縮こまって首をもたげているようだった。
暖房の設定温度を上げる。凍えてしまうのだ。固まるとスプーンで削っても元には戻らない。暦の上では春らしい。公園の木々も芽を膨らませていた。しかしこの部屋は冬に取り残されているかのように冷えている。毛布を三枚かぶってがたがた震える。スプーン、床に転がっていた。
鈍色の海が白い切っ先を立てている。磯の臭い。クッションを抱くと少しだけ温かいような気がした。焦点の合わない眼差しは、滑り流れ、気だるげに、しかし拒んではいない。刃を沿わす。膨らんだ芽は傷口から裂けて、血みどろの塊を覗かせる。まっすぐな目がひとつ、こちらに向けられている。
笑う。泣く。怒る。驚く。喜ぶ。日の光だろうが豪雨だろうが、それを浴びる君のことを見たこともないのに美しいと思う。そろそろ明かりを消さなければ。瞼を閉じる。気だるげな眼差しはもうない。暖房も止まってしまった。毛布の中で火が燃えている。やがてこの部屋を焼き尽くしてしまうだろう。
満月ね、周期、サインカーブ、車の事故、不安定さ、転換点、ストローをさして吸う。一月ぶり、またかと思ってしまう。手を振るともういない。闇、もやがかった、ぬるい、微粒子、いのち、獣の喘ぐ声。いつの間に無機質になってしまったのだろう。見上げる、満月、プラスマイナス、まばたきする。
星のようなもので、今日見かけたニュース、超新星爆発を可視光で観測したって、いつ発せられるかわからない光を広大な空のもと待ち続けるってどんな気持ちだろうとか、そのぶん私たちは見えているからいいよねと、話しかけた相手はいない。錯覚、虚像、他意のないただの現象。眠ればいいのかもしれない。
不思議だ、存在するということ、君はどこから来たのか、いまはまだいない、君はどこにいるのか、けれど君はそこにいる。いるのだろうか? 実はいないのだろうか? 私たちはもっと単純なはずだった、複雑になってしまった、ような気がしているけれど、本当は単純なのかもしれない。
ゆらゆらふわふわと漂って、波で流されて消えてしまうような思考が、煙草の煙のように唇から立ち上るのを見ていた。存在しない君が泣いている。夜は眠る、夜は眠る、と歌いながら部屋のなかをぐるぐる歩き回っている。存在しない君が泣き止む。どこにいってしまったんだろう、私は首を傾げる。
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