『ファーナス/訣別の朝』

 いいね、いいね、傑作です。

 米国から派遣されたイラクで地獄に憑りつかれたせいで、帰国後にほとんど自滅に近く殺害された弟(イラクには繰り返し4回行った、という設定がまた壮絶)の仇を討つ兄の物語。

 舞台はいわゆる近年「ラストベルト」と呼ばれるようになった鉄鋼の町。弟は、イラクより帰還後、町で唯一の労働を提供する「鉄工所だけでは働きたくない」、と主張し没落していく。なぜ鉄工所では働きたくなかったかと言えば、それは「父も兄も全員鉄工所で働いていた」からでもあり、父(=国家)の否定をしたことが大きなきっかけとなり、やがて命を落とす。つまり父に取り込まれる前に(そして同時に鉄工所は閉鎖されることが決定する)、弟は死ぬ。
 そこはまるでスティングの「The Last Ship」の歌う造船の町と同じだ。出ていくこともできず、造船業が死ねば子どもは食べていくことができない。家族や人間関係、そのすべてが崩壊する。その町に残された兄は、弟を死に至らしめたある人物を殺すことを決意する。

 ここで、弟を殺した「仇」、ウディ・ハレルソンとは、しかしながら決して父ではない。父である鉄工所、イラク戦争を主導したアメリカ、そして「父」世代の男たちは、兄の復讐をただ見守るだけだ。

 おそらくこの物語、前半は鉄工所=兄=「父」殺しの話なのだが、復讐劇に転じることによって、微妙に「父殺し」を外していく物語なのだ。
 物語の中で、もはや倒すべき「復讐の相手」(警察がタッチできない危険な山岳共同体のボスというこれまたひどい設定!)は、アメリカを表象しない。言ってしまえばただの「地元で力を持つ凶暴な男」でしかない。帝国に対するテロリストだ。兄が最終的に復讐を志すのは父ではない。よくわからない坊主の男である。
 それは深読みすれば、アメリカにとっての「父」はある意味で、力を失いつつあるということなのではないか。

 この映画の描く世界において、「国家に復讐することなどできない」ということの意味は、国家が強大だから倒せない、というのではもはやない。国家への信頼もなければ、国家はもう倒すべき相手でもない、という諦念。これは「あんたを父とはもう認めません」という「新しい父殺し」の映画なのではないかと思うのだ。いわば「父の無視」である。(ただし「母殺し」と「不妊」も一つのテーマとしては語られるし、鉄工所は「母胎」としても機能しているので、複雑ではある。)
 この映画は、帝国としてのアメリカはもう、終わっているという予言なのではないか。

 そういえばイラク帰還兵の話は、ちょっと前に、トミー・リー・ジョーンズの不思議な映画があった(『告発のとき』)。
 強大な国家と徴兵される息子たち、という構図は、彼ら「ベトナム退役軍人の会」世代がもうすぐ葬るのかもしれない。『ファーナス』において「父」たちが何もできずに立ち尽くす姿と相似である。国家への反逆とか、国と国との対立なんかもう古いわけで、遍在するテロリストに囲まれたアメリカはもう帝国ではないのだ。いくらがんばって空爆をしようと。だからなんだろう、キューバとアメリカの国交正常化になんにもときめかないのは。すごいね、いつから世界はこんなになってしまったのだろうか。

 繰り返しになるけれども、弟を演じるケイシー・アフレックは、父を否定することが引き金で死ぬ。血まみれになって死ぬ彼の死が、なぜか(私には)いっこも悲劇的に見えず、困った。それは「自由への逃走」でもあり、それをまったき地獄の死、とするのか、それともなにかフランダースの犬みたいな「天使に囲まれた甘い昇天」とするのかは、観る人が決めることなのだろう。
 イラクで「首を斬られた赤ん坊を見」、「道端に重ねられた足を運び」、苦しみ悶え自己を失い、自滅した男の死を「それこそ希望だ」と言ってしまうのは、さすがにどうかと思うのだけれど(弟は死ぬ前に「最後の勝負から戻ったら鉄工所でやり直す」という手紙を残しているし)でも、3.11後、原発に全財産を奪われ、ひとりで避難先から自分の家に取って返し、割腹自殺した男の絶望と比べてしまうのだ(これは現実に起こったことだけど)。

 鉄工所しかない町と、原発しかない町において、職と食を与える「父」は重なるはずである。そして両国のとある男の死を通して見た時に、アメリカと日本と、果してどっちがひどい国だろう。どっちもどっちだ。
 ケイシーが兄に向かって叫ぶ。「国が俺に何をしてくれたんだ!」この陳腐な台詞は、きっと歴史の中で、黙殺されてきた多数の死者の声である。私たちは耳を澄ませていないと、その声を聴くことができなくなる。
 そして、その声を掬い上げる優れたフィクションから目を上げるとき、我々は現実のこの世界で、「自由への逃走」は「自由への闘争」へと変換することが可能だと、高らかに宣言すべきではなかろうか。

 そしてクリスチャン・ベイル演じる不遇の兄も、いいです。「そこで働くしかない」という諦念は親子代々働く誇りに転じていくが、「最後の船」がそこを出て行ったとき、全ての男の尊厳は破壊される、スティングの世界で、クリスチャン・ベイルのよるべなき淋しそうな顔は、アメリカの何を体現しているのか? 
 なんか綺麗で端正すぎるんじゃないかという感じのクリスチャン・ベイル。銃を構える後ろ姿の美しさは、「マッチョな労働者」からはみ出た存在で、それもまた、すでにアメリカを表象してはいない。「父」世代の男たち(フォレスト・ウィテカー含む)のマッチョさと、全く違う外観を持つ兄弟。
 だからこそ、なんだろうな、どの悲劇的なシーンでも、次行こうぜ、次!と、彼に向かって笑いかけたくなるような明るさを感じさせる。この明るさはいったいなんだ、と言えば、それは、結局アメリカの「ハート」なんだろうから、そういう意味でも二重に「帝国」は終焉しているのである。

 そしてクリスチャン・ベイルは、また「父」の闇の中に落ちていく。
 エンドクレジットに響くパール・ジャムは「release」を歌う。
 俺を解放せよ、俺を解放せよ、そのリフレインが、闇に響き、その行きつく先は、誰にもわからない。

(2015年4月15日記)

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