逆説としての『アメリカン・ユートピア』

 デイビッド・バーンとトーキング・ヘッズのことはかろうじて知っているし(暇でやることがない待ち時間にデイビッド・バーンごっこをするくらいは親しみがある)、西洋の音階やリズムを超えて痙攣などしているところはおもしろくて、安心して聴くことができる。

 でも自分は音楽の人間ではないので、ノリノリで観ていて超絶楽しいなこれ!、スタイリッシュさとダサさが混在しててすごいな!、と思いつつ、やはり観ながら頭のどこかで、これは私のために作られた映画ではない、と思う。
「こういうの観てると逆にブルース・スプリングスティーン聴きたくなったなあ」「スティングのザ・ラスト・シップのほうがいいなあ」と思いながら観ていた。

 スパイク・リーとのコンビで考えてみれば、多様性云々と言いながらバンドの中にアジア人が一人もいないことは想定内。
 そしてユートピアと言いながらこの空間はあらゆる意味において逆説のユートピアなんだな。

 英語では題名の「UTOPIA」の文字が上下逆に提示されていることは偶然ではない。
 デイビッド・バーンの歌詞を字幕付きで初めて意識して聴いたが、歌詞の内容はほぼ逆説だった。言葉の意味、文脈をわざとひっくり返して歌っているようなものが多いんだなあと思われる。
 具体的には「僕の家にみんなやってくる、大騒ぎだ、という楽しい歌の内容は、自分のアレンジで歌うと”早く帰ってほしい”という意味に聞こえちゃうんだよね」というような具合だ。
 あるいは、ある種の精神疾患と「正常」さとのせめぎあいの世界のように感じる歌詞もあった。

 アメリカンユートピアの舞台は「脳」のシナプス結合で人間性が決まる、という独白で始まる。
「ユートピア」という題名の舞台上に「脳」が登場するのであれば、アメリカにおけるユートピアは脳内にしか存在できない、と言っているのかな、と想像することも可能であるし、あるいは脳内だけで完結するユートピアなどユートピアではない、と言っていると、想像することも可能だ。

 このステージ上では、シナプスのように細胞に見立てられた演奏家たちがが動き回り、音が電子信号のように飛び交い、軌道に乗った、ときにはランダムなダンスやマーチで「脳内」世界が作られていく。
 映像が何度か天井のカメラから俯瞰されるのは、単にバンドの陣形を映すという効果だけでなく、「この舞台を見ている自分の脳を上から覗いている」ような感覚ももたらす。
 すると、脳の中には、たしかにユートピアはあるように見える。

(しかし脳内にしかユートピアが存在しないのであれば、観客はどこか不安にならないのだろうか?)

 そしてもうひとつの逆説。
 デイビッド・バーンが何度も訴え、ラストに文字として表示される「選挙に行け」「有権者登録をしろ」というメッセージは、「ここがユートピアではない」と叫んでいる証左ではないか。

 デイビッド・バーンは歌う。自分は好きなように生きる。自分は怠惰であることが好きだ。それでいい。
 テレビを観ていれば十分だ(しかし今はそう思っていない)。

 そのように不完全な自分を肯定し、同時に飄々と外部の世界を受け流していく「しらけ」と、選挙に行け、黒人差別を許すなという熱を持った主張は、こちらが彼の真意を汲むのをだまくらかすようにステージ上に展開され、それがどこまでも軽快でポップな音楽に乗ると、「そんなのどうでもいいじゃないか、音楽が最高なのだから」と言われているようで、どこか分裂病的で不穏である。

 あらゆる意味で逆説としてのユートピアがここにある、つまり、楽しくて最高の音楽が流れていて、これがユートピアであれば、このユートピアに安住するのであれば、私たちは永遠にユートピアにはたどり着けないのだ(とは言えないのだろうか)。

 では現実世界にはユートピアはないのであろうか?
(「UTOPIA」の文字をひっくり返したのは誰なのだろうか?)

 はっきり言ってしまえば、ユートピアはない。
 ユートピアを肯定した文学者を知らない(トルストイとかは個人的に嫌いだ)。
 ユートピアは何度も文学者たちによって夢想された。しかしユートピアに辿りついた文学者はいただろうか。
 私は音楽が分からないので、本当に分からないのだが、もしユートピアは音楽においては成立するというのであれば、デイビッド・バーンとスパイク・リーにおけるユートピアはどこまでも反転している。
 だから私にはこの映画の本質はわからない。
 スティングやスプリングスティーンの節回しの中にしか、私の音楽の意味は存在しない。

「アメリカ」における「ユートピア」と「脳」で個人的に想起するのはヘルツォークの『シュトロツェクの不思議な旅』だ。
 アメリカこそが理想郷だと夢見て旅に出るシュトロツェクたちは、圧倒的な文化的軽さの中で潰される。
 そのような何重もの逆説に満ちた「ユートピア」が題名の中でひっくり返っているのは、おそらく偶然などではない。
 そしてアメリカは移民たちにとってのユートピアであるが、ユートピアとはやはり存在しないのではないか。

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