【解読】瀬戸夏子の短歌(歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』内)における指示語ーーこそあど言葉による距離感、と期待値


瀬戸夏子の歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』において、

それともこの・あの・その・どの・順接のだれもがアンサンブルの出身

/瀬戸夏子「純粋な勝負は存在しない」

への気になりがある。今、この一首を基点に歌集の解読をしようとしている。
最たる興味は、いわゆる〈こそあど言葉〉について。あるいは、この歌集に収録されている〈こそあど言葉〉を含んだ短歌ーー実際たくさんある、その一首ごとにおける〈こそあど言葉〉の機能性ーーについて。

   「ありとあらゆる水玉の底」

きっかけはひとつその老いの凍りの花束、ゆっくりと声高に

わたしにかかった秘密のその隙に太陽へ執刀する花はさかりに

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

どちらのも、遠近法的な機能の〈その〉だと思う。
一首目は遠く、二首目は近い。
遠く、というのでは些か語弊があるとしたら、例えば映画館のスクリーンのような規模感の大きさを〈その〉で全面的に視ている感じ……と思うと思う。
一方「その隙に」は全面とする対象「わたしにかかった秘密」の、一部にフォーカスが定まる〈その〉のイメージ。
とはいえ、あくまで〈その〉にフォーカスを当てすぎた偏りになっているかもしれないが。
一首目は、一度「その老い」は「凍りの花束」に集約されるが、その後すぐに「その老い」を全面としたときの大きさよりも更に大きい範囲に広げられる。というイメージを「ゆっくりと声高に」に得る。
二首目は「その隙に」にて、体勢の変更がある。
だろうか、そういった読みの楽しみもある。

   「わたしは無罪で死刑になりたい」

ほんとうのことを知ったらそこにいる春また春の雪の選別

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

ほんとうのことを知ったら、という仮定において、まだ「ほんとうのことを知らない」から〈私〉は「そこにいる」状態ではない。ときに「そこにいる」との隔たり、それは実際に位置関係というよりは、文言としての「そこにいる」での隔たりをこそ享受したくなる。
とはいえ、位置をキーワードにするなら

賭けてもいい宇宙を股に恋を瀬にそこにいくならアクセス可能

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

の〈そこ〉は位置だ。そもそも、どんな文脈においても〈そこ〉は位置を示す。というのは、それはそうではあるのだけれど。それを前提とした上で、ニュアンスは別の〈そこ〉だ。
この一首も、まだ〈そこ〉にはいない。
この「賭けてもいい」と断言するとき、発話者は〈そこ〉にいるのかは定かではない。何を賭けるのかも定かではない、可能になるアクセス先も〈そこ〉なのかどうか定かではない。と思いつつ、まだ〈そこ〉にはいない。からこそ「そこにいくなら」という仮定が成立するわけだけれど、とはいえ一首の本旨は「賭けてもいい」にある。

わたしたちこの両手のフルハウスよりもっと感傷的にならなければね

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

この「この両手」って、複数人で構成される〈わたしたち〉に関わらず、あくまで〈わたしたち〉全員で一組の「両手」に視える。

ゆうべ処刑のただしい心は南へむかった船はそのままきのうの写実へ

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

一体「ただしい心」だなんて、なんてコテコテな修飾なんだろう。と思うが、一首は〈心/船〉を並置している。
この〈船〉が何の喩なのかは判断しかねるが、しかし写実にある〈船〉の像を想起する。それはそうとして、南へ向かうという〈心〉が分離していく。という印象を得るが、それは「そのまま」に因るものだろう。
写実へ、ではない方向が何か? 南へ……

夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ

/正岡豊『四月の魚』

???

   「スイーツその可能性の中心」

てのひらにそれから汗にふたつから星のかたちの血が溢れてる

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

この〈それ〉は、追加のニュアンスだ。
手のひらと汗、なのだけれど「ふたつから」という三句目には、手のひらと汗は「それから」という接続の必要がある。
この「手のひら/汗」に続く助詞が〈に〉であること、それを〈私〉は重要視したい。
それぞれから血が溢れてる、ってことだと思うんだけど。
だとすると、どちらも順接ではない。順接だとしたら、たとえば〈から〉とかだろうか。しかし、この〈から〉のニュアンスは三句目「ふたつから」で調整されており。つまり、この〈に〉は「ふたつから」の内訳が、手のひらと汗ではない。という可能性を示唆する……と、些か堂々巡りめいてくる。が、ここで「それから」が功を奏してくる気がしない?

黎明の火を焚きくらべ身のなかを知る気配からその満場の意志

色のないクリスマスツリーやその群れがあらそって脱ぐ月の下かも

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

この二首の〈その〉は、それぞれ〈範囲指定〉と〈限定解除〉として理解する。
という見立ては「その満場の意志」から、あからさますぎるが。しかし、この一首。実際どの満場で、どういう意志なのかは不明瞭すぎる。としても「満場の意志」をパーセンテージ的な度合いでの判断もあるな、と思える。確信、みたいなニュアンスの「満場の意志」な一首として〈私〉は「満場の意志」という文字列を楽しめる。

イメージよりも愛の悲しみこのおくればせのポルノグラフィー

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

この「この」は、あまりにも手元を対象とする指示語。それなら「よりも」にも手元……のニュアンスで、というのは、あまりにもだろうか。
それでも、
イメージ よりも 愛の悲しみ のほうが、手元に近い
印象がある。それなら、イメージ と 愛の悲しみ が同列の抽象度(?)として扱われている。という点も、留意するべきだろうか。ポルノグラフィー だって、よっぽどの抽象度 だと思う、それなら。

   「感情という時代の戦争に生まれた」

ある日という椅子の名だけがそこにありただふたくちのけものの子ども

かたむいたウィンドウズこそその仇ゆくえもしれずその夢を抜け

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

一首の内に、二つある。タイプの二首、なのだけれど。
一首目は「ある日」の〈ある〉と〈そこ〉は、あたかも同等の距離を示している。この二種類〈ある/そこ〉の表記があるのは、時間軸から空間への転換の。しかし、どちらも具体物があるわけではなく。ただ〈名〉だけ、なのだけれど。つまり〈椅子〉を具象でイメージするのは、ミスリードとなる。この〈名/言葉〉で保たれている、というのが、この一首の美質だと思う。
一首目が下まで流していくタイプだとすると、二首目は句切れを意識させられる。とはいえ「仇」の位置に拠るところは大きいが、二つの〈その〉の位置もあるだろう。
どちらも「かたむいたウィンドウズ」に向いているかと思うが、絶妙に〈その〉が並列になっている。ように視える一首、とはいえ一首の軸は「抜け」のほうに比重がかかる。比重のかかり方を、読みどころの一つに数えたい。

   「生まれかわったら昭和になりたい」

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

〈その/その/それ〉なんて、なんて過剰な……とは思うが、それは〈こそあど〉に着目しているからでもあるだろう。この一首の難易度は「行数」だと思うが、しかし制限時間や可動域といったイメージだろうか。
その上で、この一首の基点は「それとも」だと思っている。のだけれど、だとして「頑張っちゃう?」って、なんなんだろう。
なんというか、
そのあとすぐに/それとも頑張っちゃう?
を下の句として、結句での7音分(というか7音分ぴったり)の「それとも頑張っちゃう?」かなり凄い。

   「東京という死の第二ボタン」

ひどい嵐ひどい満開そのただなかにして鏡を財布に

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

〈その〉ってよりは、

すごい雨とすごい風だよ 魂は口にくわえてきみに追いつく

/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

を連想があるけれど、同じ情感かは分からない。というのも、平岡の一首のほうが情感ーーというか、作中での動作の動機ーーが、分かりやすい。というか「鏡を財布に」の意図とか動機とか(言動に対しても、文字列に対してとしても)が、分かりかねすぎる。
そもそも「ひどい嵐ひどい満開」は両立するのか、両立はするだろう。けれど、同時とは限らないのではないか。というのは〈その〉の指し示す範囲ーーただなか、というからには尚更、範囲は必要に思うーーに関与するからだ。
それはそうとして、この一首。
読み下し後に、いわゆる〈三句目欠落〉の韻律をしている。と思い到る〈私〉は、順接に〈三句目欠落〉の一首としても受容する。

   「純粋な勝負は存在しない」

虹から次々に色は抜かれてどの人も浮き足立つ、苺ジャムという機会

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

こんなの、きちんと範囲指定ができてないとじゃん。って思うけど、だいたい〈どの〉に対象の範囲は必須な気もする。
とりあえず一首の本旨的には、何かしらが作用することによって(「虹から次々に色は抜かれて」)状態に影響がある(「浮き足立つ」)という点を押さえておけばいいのではないかと思う。

とりどりの夜空のそのいくつかを手放したかった関係は微笑みへ変わっていった

/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

この「とりどり」という一語に、きちんと「いくつか」というバリエーションを付与した。という一点で既に、この一首に対して〈私〉は、ほぼ全体重を傾けることができる。
この「変わっていった」のような抒情は近ごろだと、永井亘の歌集『空間における殺人の再現』ーー一首にスクリーンが導入されている、という比重で〈私〉は読んでいるーー顕著だと思っている。

   △

この歌集に収録されている〈こそあど言葉〉を含んだ短歌ーー実際たくさんある、その一首ごとにおける〈こそあど言葉〉の機能性ーーについて。
実際たくさんある全てに言及したい気持ちもあるし、もっと歌集全体を通した読み方ができてもいい気持ちもあるし、ちゃんと言語学的な視座に立って検討したほうがいい気持ちもある。
しかし、ここで言及したのは全て、質がいい一首と〈私〉が判断できるものにも限れている。

それともこの・あの・その・どの・順接のだれもがアンサンブルの出身

/瀬戸夏子「純粋な勝負は存在しない」

ところで「アンサンブルの出身」とは、元は集団だったが今は一人・単体としているのだろう。
そうなのだとして、この一首では〈こそあど〉に〈順接〉が含まれている。
つまり〈順接〉以外の、とすると〈逆接〉は「アンサンブルの出身」には含まれない?



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