吐いて捨てる

以下、独りよがり自分語りです。

今からちょうど3年前、当時3年生だった先輩に
「3年生にもなって頻繁にTwitterしてる人はあんまりいないよ」
と言われたのを、確かに覚えている。

……おかしいなあ。ツイ廃のまま4年生になってしまった。
まあ、趣味垢にこもって規制垢までつくっていた中学生の頃に比べれば、ツイートの回数は減ったけれども。
みんな知ってる? Twitterって、1時間に127ツイートすると規制かかるんだよ。

まあそんな話はいったん置いておいて。
今日は、私の中での「創作」の位置づけについてつらつら書いていきます。


先日、友人Cちゃんとこんな会話をした。

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外に出さざるをえないから創作をする。するりと口をついて出てきた言葉のわりには、なかなか的を射ているのではないかと思う。

アクセサリーをつくる。料理をつくる。お菓子をつくる。文章をつくる。
私は物心ついた頃から一貫して、何かを「創り出す」ということに人並み以上の執着を持って生きてきた。同時に、自分の中の「創り出す」という行為がどんな意味を持つのかについても、なんとなくだが考えてきた。

そうした前提があったうえで、今回の会話で気付いたことがある。

私は「創る」ことよりも、むしろ「出す」ということを目的としているのかもしれない。つまり、抱えきれなくなった願望や欲求を、作品という形で物理的に体の外に出す、そのための手段として創作をしているのかもしれないな、ということだ。

体の中に溜め込めるエネルギー量には限界がある。
どんなにおいしいご飯でも無限には食べられないの同じで、たとえポジティブなものであっても自分のキャパシティを超えて体の中に留めおくことはできないんだと思う。
私は人よりキャパシティがないくせにいろんな感情や思考がぽんぽん浮かんで、しかもそれを消化したり発散したりするのがへただから、こうしていろんな手段で体の外に出さざるを得ないんだろうな、難儀な体だな。

一方で、創作が趣味の人って圧倒的に何かが足りてなくて、足りてないものを求めて創るんだろうな、というのも実感としてある。インプットした外部のものと自分自身を組み合わせることで、副次的に発生した何かを糧に再び自分自身を構築していく。これはおそらく「創り出す」の「創る」の部分の話だと思うんだけど、長くなりそうなので割愛。

この二点を合わせて考えてみるかぎり、「創り出す」人はその過程で“何かを捨てること”と“何かを拾うこと”を同時にしているんじゃないかな、と思う。さっき食べ物のたとえを使ったけれど、それこそ「食べたものを分解して、栄養を取り込み不要物を排泄する」一連の流れは、「創り出す」ことと構造的に似ている気がする。
どの程度捨ててどの程度拾うか、そのバランスは人によって違うと思うけど、「創り出す」ことから逃れられない人たちは、おしなべてそんな人たちだと思う。


「創り出す」について思考を巡らせているうちに、これはもしかして先月から考えていたことのヒントになり得るのでは、と気付いた(ここで話が戻ります)。


先月、Cちゃんとは別の友人から「Twitterやる理由ってなに?」と聞かれた。
彼はTwitterもInstagramも「アカウントはあるしTLは見るけど自分は全く発信をしない」というSNSの使い方をしており、わざわざツイートをする、ということに意味が見いだせないらしかった。

少し考えて、言語化欲かなあ、と答えると、じゃあメモ帳でよくない?と返されてしまった。そりゃそう。言語化したいだけならメモ帳で十分、なんだけど。

こまった。いい感じの返答が思いつかない。

浅ましい自己顕示欲と承認欲求、というのが一応の正解ではあるけれど、それを認めるのは情けないからそうは答えたくないな。どうしよう。何かそれっぽい言い訳を考えなければ、という謎の焦りに駆られてここ2ヶ月ほど頭の片隅で考えていた。

言葉を紡ぐ、という行為が、広い意味で創作の一種であることはまちがいない。
私にとって創作が「出す」ための手段であるなら、Twitterも含めて言葉にすること自体も「出す」ための手段であることもまたまちがいない。
ただ、あらゆる創作と異なる点は、「言葉を紡ぐ」ことそれ自体は閉鎖的というか、自分の内でのみ完結する行為だということだ。
たとえ自分の抱える感動、嬉しさ、悲しさ、苦しさ、そういう大きな感情を独り言として呟いたりメモ帳に書きなぐったりしたところで、それはあくまで自分という枠の中での思考の整理に過ぎないんじゃないかな、と考えている。
思考が整理されることで「整理されていないことに対する不安やストレス」は軽減されるかもしれない。でも、思考自体の持つエネルギーの質量は依然として自分が負担しなくてはいけない。成果物が物理的に自分の外に出来上がる芸術作品や料理なんかと違って、言葉は完全に自分の外に出てはくれない。

SNSとかブログとか、人に見せる文章を書く意味って、そこなんじゃないかなあ。
私にとってメモ帳はどこまでいっても自分自身の範疇でしかなくて、対して他人の目があるSNSは自分と他人の間に位置する空間だ。そこにぽんと言葉を捨て置くことで、部分的にでも思考を自分自身から切り離すことができる。それがつまりは先ほどから書き続けてきた「出す」という行為であって、だからこそ私に不可欠だ。

そうそう、“自分と他人の間”たるSNSでぺらぺら喋っていると、たまに私の文章を読んで「わかる!」って言ってくれる人がいる。そういうときはたぶん、私とその人との間に最大公約数的な言葉がうまく捨てられているのだと思う。その実感だけでかなり心が軽くなるし、誰かに届く言葉が紡げたということは単純にめちゃめちゃ嬉しい。リプや感想をくれる友人たち、いつもありがとう。
まあこの文章は難解ポエムすぎて誰にも届く気がしないのですが。


もちろん、発信する理由なんて人それぞれだし、時と場合にもよるだろう(私だってバ先の生徒の奇行なんかは完全にネタで書いてるしな)。
あくまで私の場合はこんな感じですよ、という話でした。Twitterは生命線。


ただ一方で、書かずに済む人たちが心底羨ましいな、とも思う。

打たれ強くて、キャパがあって、感情の処理が上手な人たちが羨ましい。
前回のnoteにも書いたけど、私は目に見えるもの耳に聞くものすべてに反応して質量の大きな感情を抱えてしまって、自分の器のなかに入りきらなくて、こうしてだらだらと溢してどうにかこうにか人の形を保っているような人間なので。

創り出す、体の外に出すという行為なしに、上手に自分の中で分解できる人、いいなあ。
と書いていて、なんだか私が死ぬほどアルコールに弱いのと似たような構図だなあ、と思い当たった。
みんなならちっとも酔わないくらいの微量なアルコールに反応して、うまく分解できなくて、体の外に出さないと苦しくて気持ち悪くて仕方なくて。
ほろよい1缶くらい涼しい顔して飲みきれるようになりたいんだけどな。

全然関係ないけど、最近はGODIVAのチョコレートリキュール375ml瓶を買ってちまちま飲んでいます。15倍くらいに割って飲んでるから全然なくならん。1人じゃほとんど飲まないのでぜひオンライン飲みに誘ってください。


締めます。


私はきっと、手段を変えながらも一生「創り出す」という行為をやめないんだろう。
「創る」じゃなくて「創り出す」。出す、の方に重きを置きながら。

書いたり描いたり作ったり、そういうのをやめられない人たち、それぞれに創る理由があるんだろうな、とぼんやり考える。
あなたの創る理由はなんですか。よかったら教えてください。

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