ジェンダーとかしんどいからもういいよ

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生/河出書房新社)の読書感想文を書こうと思ったのだけど、わたしは太古の昔から読書感想文がめちゃくちゃ苦手なので適当に思ったことだけピャーーっと書きます。


恋愛を楽しめないの、僕だけ?
"男らしさ""女らしさ"のノリが苦手な大学二年生の七森。こわがらせず、侵害せず、誰かと繋がりたいのに。
ジェンダー文学の新星!
鋭敏な感性光る小説4篇を収録。


男子大学生・七森が所属するぬいぐるみサークルの活動内容は、ぬいぐるみとしゃべること。
つらいことがあったら誰かに話した方がいいけれど、それを向けられた相手は悲しんで、傷ついてしまうかもしれない。それが怖いから、だからぬいぐるみに話す。ぬいぐるみに楽にしてもらう。ぬいぐるみとしゃべる人は、そんなやさしい人だ。
タイトルはざっとこんな意味合いだ。

七森は(おそらく)アロマンティックで、周囲のホモソーシャルなノリに溶け込めない。恋愛を介した繋がりを持てないことに孤独感を抱く一方で、自分の持つ男性性の加害性に怯えている、そんな繊細なキャラクターだ。

「加害性」って言い方は嫌だけど、男性性の持つ恐ろしさは確かに存在する。
わたしは(そしてたぶん多くの女性は)夜道で後ろを男性が歩いてたら怖いし、エスカレーターでは背後に隙が無いように必ず横を向くし、知らない男性に話しかけられたら警戒する。
それって男性側はなんにも悪くないんだよな。かといって女性側が過剰防衛というわけでもなくて、それが難しいところなんだけど。

いつかTLで

シス男性かつヘテロである自分は加害者になりやすい立場であり、ジェンダーを論じても欺瞞に過ぎないのでは(うろ覚えかつ意訳)

というつぶやきを見たのを思い出した。
男性がジェンダーについて考えるときのやりきれなさとかもどかしさというのは、確かにあるんだろう。そういう逃れられない「加害性」に傷付く七森はとても生きづらそうだ。

そういうのも含めて、七森はとにかく感じやすくて、傷付きやすい。
わたしもすぐメンタル死ぬし付随してフィジカルも死ぬ人間なので気持ちはとてもよくわかる。
自分のことでへこむし、友達のことでへこむし、事件事故報道でへこむし、戦時中の話でへこむし、被災者の話でへこむし、遺族の話でへこむし。へこむがゲシュタルト崩壊しそうなくらいとにかくいろんなことでへこんでいる。
見るもの聞くものすべてに反応してしまって一喜一憂するの、死ぬほど疲れる。

そういう意味で、七森とわたしは似ている。けれど、わたしは七森をあんまり好きになれなかった。

わたしが共感と違和感を同時に覚えるのは、
きっと七森が「やさしくて傷付きやすい人」
わたしが「やさしくなくて傷付きやすい人」だからなんだとおもう。

わたしはやさしくないから、嫌なことは嫌だと言ってしまう。
恣意的ではあるけど自分なりの境界線を引いていて、それを侵害されたときは反発しつつ、コミュニティのノリにも迎合しているし楽しんでいる。
七森みたいに、言いたいことが言えなくて泣いちゃうようなことはしない。

大学に入って初めてジェンダー的なギャップに触れて以来、そうだった。

中高は女子校だったから、リーダーも力仕事もサブリーダーも手作りアルバムも全部女子だけでやっていたので、良くも悪くもいきなり男女に分けられたことに困惑していた。

身体的特徴を性的な視点をもってからかわれるとか、女子に下ネタ言わせて喜ぶとか、女子なのに牛丼食べてるのはやばいって言われるとか、女子は幹部になりづらいとか、男女で出掛けたら怪しまれるとか、そういうのいろいろ、カルチャーショックだった。

でも、この本を読んでいて気付いたことがある。
わたしは別に、女性差別に傷付いてるとか怒ってるとかいうわけじゃないらしい。
ただ単純に「え、意味わからんのだけどおかしくない?」って疑問におもっているだけで。

だから、「女性差別に全力で傷付いている」七森の感情が伝播するのが辛かったし、思ったことが言えずにめそめそしてる七森にいらいらした。

わたしは差別に傷付いているわけではないし、ジェンダーについて「考えている」「勉強している」という意識を持っているから、一歩引いて客観的に捉えようとしている向きがある。でも七森はひたすらにやさしく傷付きやすいから、それを客観的事実ではなく「いやなこと」として主観的に捉えてしまう。読んでいるわたしは七森のそういう痛みが伝わってきて、どうしようもなく居心地が悪くなってしまう。

なんかさ、私が実験用のマウスを解剖してる横で、「ねずみかわいそう(´;ω;`)」って泣かれてる気分になるの、わかる? まあ私もマウス解剖したことないのでたとえが合ってるかはわかりませんが。

それに七森、無意識に傲慢なんだよな。
「人を傷つけたくない」という一方で、好きでもない白城と付き合って誠実に向き合えずに、隣にいるのが別の女の子だったらいいのに……と夢想してしまう。そういう七森の無意識に残酷なところ、結局は「他人を傷つけることによる自分の傷」を含めて自分が傷つくのに耐えられないところも、あんまり好きになれなかった。

しかも七森はすれ違っただけの他人の会話に対しても「ぼくがもっと強ければ注意したかった」とか言い出す。謙虚さの陰に自分が人を変えたいっていう傲慢さが見えてきつい。
いやまったくもって私に言えたことではないんだけど。

わたしはわたしの周りの差別的な空気について、慣れた部分もあったし、異を唱えて茶化されたこともあったし、伝わらないことに絶望もした。

そういうのを繰り返して自覚したのは、伝えようとする傲慢さだった。
何が正しいかは別として、他人には他人の価値観がある。
それを壊して再構築させようとするのはただの独りよがりだし、無駄だ。

とおもって今は結局「自分の中の信念は守りつつ他人を変えようなんて傲慢な考えはやめましょうね」という結論に落ち着いている。
他人はしょせん他人だから理解しようとしても理解できないし、変えようとしても変えられないってことにここ数年で気付いた。
もちろん、気付いたからといって完全にそういう考えを払拭できたわけではない。わたしはもともとかなり傲慢な人間なので。七森に感じる違和感は、自分に対する羞恥を含んだ同族嫌悪なんだろう。

このまえ

『人は変われる』というフィクションが巷に溢れすぎてて、『人を変えることができる』幻想を多くの人が半ば強迫観念的に抱いているように感じることは多々ある。

というつぶやきを見たのを思い出した。この幻想を抱くことこそ無意識の傲慢さなんだろうな、と頭の中で繋がった。


というようなことを考えてたら3000字になってしまいました。こんなの書いてる暇があったらES書けばいいのにってそれはそう。


締めます。


私の愛する吉本ばなな『キッチン』の文庫版あとがきに、こんな言葉がある。

「感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない」

わたしの友達、感受性ガバガバな人が多いので心配。生きづらいね。みんないい感じに折り合いをつけて幸せになってくれ、と他人事ながらおもいます。

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