HSPだからなんだっていうんだろう

こないだ、テレビで高校生サッカーを観た。
確か都大会だか東京予選だかの決勝で、これに勝てば全国というわりかし大事な試合だった。

私はサッカーにはめっぽう疎いし、出場校には縁もゆかりもないしで、要するにこの試合に一切の思い入れがなく、ただ暇つぶしに観ていただけなんだけど、

がっつり涙ぐんでしまった。
しかも、プレーと全く関係ないところで。

「今年は感染症対策のため、無観客での開催となりました。しかし、今年はオンラインで全校応援を行っており、生徒たちは画面越しに選手へのエールを送っています」

こんなアナウンスだけでもうだめだった。

練習できない時期が続いたこと、しんどかっただろうな。大会ができるかもわからなくて不安だっただろうな。そういうの全部に打ち勝ってここにいるんだな。会場には来られなくても、何百人もの生徒が選手たちを見守ってるんだな。

困難を乗り越え、多くの期待を背負ってコートに立つ。そこに込められた全ての人の想いの熱さ、重さをおもうだけで、胸がいっぱいになってしまった。

私、ぜんぜんまったく1ミリも関係ないんだけどさ。

涙をこらえる一方で、我ながら感受性バグってんなー、と妙に冷静になってしまう自分もいた。


こういう人のこと、HSPというらしい。

HSP。Highly Sensitive Person。
あらゆる刺激を非常に敏感に感じ取る人。

たとえば、抽象的・概念的な話題について深く考え込んでしまう。些細なことで良くも悪くも感情が大きく動かされる。大きな音や眩しい光、いやな臭いに強い不快感を覚えたり、驚いたりする。想像力が豊かで、友人の話やフィクション、ニュースなどに共感・感情移入をしやすい。そういう人のことだ。

なんでこうなるかって、雑に言ってしまえば、フィルターがぶっ壊れてるのだ。

普通の人は、生まれつき自分と外界との間に適切なフィルターが設けられている。
このフィルターによって、100の刺激が飛んできても30しか受け取らずに済むし、自分と関係のない刺激は勝手に弾かれる。

HSPは、なんでか知らないけど生まれたときからフィルターがぶっ壊れている。
だから100の刺激がきたら99を受け取ってしまうし、大量の刺激が弾かれないままどさどさ飛んでくる。

普通の人がテニスのダブルスをやっているとしたら、HSPは同じコートでボレー縛りのシングルスをやってるようなものだ。バウンドさせて勢いを殺すことはできないし、「これはインだけど私のボールじゃないわ、任せた」もできない。ノンストップでコートの端から端まで走り回って、全部のボールを自分で打ち返すしかない。

しかもこれ、困ったことにコントロールができない。
イメージ的には、生身のテニス選手ではなく、Wii Sportsのアバター。自分の意思とは無関係に走り回らされるし、腕は振らされる。設定は自分じゃ変えられない。
こういうわけで、HSPは生きてるだけで気力も体力もごっそり持ってかれる。


こういう自分の性質にはもうとっくの昔に気付いていたけれど、HSPという名前がついていることを知ったのはここ数年のことだ。

最初は嬉しかった気がする。原因不明の体調不良が、実はよくある病気だって知ったときみたいな安心感があった。何のためらいもなくHSPを自称していた。

でも、自分のそういう態度に、次第に違和感を覚えるようになってしまった。

だってねえ、「HSPだから」なんだっていうんだろう。

インターネット上に自称ADHDが多いのは、名前がつくと安心するからだ。甘えられるからだ。免罪符にできる気がするからだ。

もちろん、ADHDの(orその疑いのある)方々を批判・軽視する気は一切ない。本人が望むなら適切な治療を受けるべきだろうし、周りの理解・配慮も必要だ。

でも、本当はADHDなんかではない人たちまで自分の“ADHD的傾向”を強調したがるのは、「(自称)ADHDだから仕方ないよね」「(自称)ADHDだから許してよ」という言い訳に使える(気がする)からなんじゃないだろうか。

同じことがHSPにも言える。さらにはADHDと違って、HSPに医学的根拠はない。それっぽい名前がついているだけで、ただの傾向を表す言葉に過ぎない。
だから、“自称”HSPであることは、何の免罪符にもならない。
HSP?そうなんだ、だからなに?って話なのだ。

本来なら、自己理解の補助程度にとどめるべき概念なのだ。それでも、名前がついているだけで言い訳になるような気がするし、他人にわかってもらえるかもって期待を持ってしまう。私はたいがい甘ちゃんなので、すぐこういうのを盾に自分を擁護したくなっちゃうからいけない。

理解と寛容さのある友達などは「はいはいあんたはそういう子だよね」と認めてくれて、私がカラオケの歌詞に共感してエンエン泣き出してもゲラゲラ笑ってくれるんだけど、普通はそうはいかないのだ。
私がうじうじ悩んでることに対して「考えすぎだよ」「なんでそんなこと気にしてるんだろう」と思う人はたくさんいるだろうし、実際言われたこともある。「お前はおかしい」と怒ってきた人もいる。
考えすぎなのもおかしいのも事実なのに、「でも私はHSPなの」って言い訳にもならない言い訳を心の中でしてしまって、また、“HSPだから”投げかけられた言葉に過剰に落ち込んでしまって、なんかもうぜんぶがままならなくてやんなっちゃった。
この記事では便宜上HSPという言葉を使い、自分をそのカテゴリに含めているけれど、ほんとはなんかもうHSPでーすとか気軽に言う気にもなれなくなっている。


そうは言っても。

自分の感受性がバグってること、これはもう否定しようがない事実だ。
ヤダヤダばっかり言ってても病気じゃないから治らないし、そのまま受け止めるしかないのだ。

それでもヤダヤダ言ってしまいたくなったとき、私は吉本ばなな『キッチン』の文庫版あとがきをいつも思い出す(これは以前書いた記事『ジェンダーとかしんどいからもういいよ』にも載せたけれど、もう一度引用したい)。

感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない。

読み返し過ぎてほぼほぼ暗記してしまったレベルに、この言葉は私のよりどころとなっている。希望にもなるし、自戒にもなる。

何より、こういう言葉に深く感じ入ることができるという点で、疎ましい自分の感受性をちょっとだけ肯定してやってもいいかな、という気になるのだ。良いものの良さをそのまま、人よりたくさん受け取ることができるのが素敵なことだということも、疑いようがない事実なのだ。


「HSPだから仕方ない」と甘えることも、「HSPだから生きづらい」と諦めることもせず、なんとかうまくやっていきたい、今世。


P.S.
書いてる途中、「『わかってもらえると期待してしまう自分がいや』って言いながらこんなの書いてるの、相当矛盾してるのでは?」ということに気付いてしまい、お蔵入りさせようかと思ったけど、たぶん他の人はそんなことまで気にしてないだろうなと勝手に都合よく解釈したのでこのまま載せます。
わかってくれなくても全然いいから、「そういう人もいるんだな」って知っといて放っといて。ボレー縛りのシングルスしてる人を見かけたら、そういう設定のアバターなんだなって思っといて。それだけでかまいません。

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