秋田県議会の選挙区定数の研究

 今回は秋田県議会の選挙区定数を取り上げます。秋田県は、水産資源、日本三大美林のひとつ秋田杉に代表される森林資源の宝庫ですし、かつては院内銀山や尾去沢銅山など貨幣の原料となった鉱物を産出したり油田も存在するなど鉱業も栄えた重要な地域でした。物資の集散地として、土崎や能代は湊として栄えていました。
 現在の秋田県の大部分の地域は、佐竹家が治めていましたが、鹿角郡は南部家(盛岡藩)の領地、由利郡は生駒家などの小藩と幕府直轄領が混在した地域でした。
 ではそのようなバックグランドを持つ秋田県議会の戦後の選挙区定数の変遷をみてゆきましょう。

 最初に分析の枠組みとして、今回も地域を基本として行います。今回は旧中選挙区時代の区割りを用います。旧1区は秋田市より北、秋田市、能代市、大館市、鹿角郡、北秋田郡、南秋田郡、山本郡、河辺郡の地域。旧2区は横手市、由利郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡など秋田市より南の地域です。

 表を見て目につくのが、県都秋田市の人口が多いことと、県の人口が減少し続けていることの2点です。 

 まず1点目の秋田市の人口についてですが、2015年の国勢調査によると315,814人で県人口の30.87パーセントを占めています。秋田市に人口が集中しているわけですが、こうした現象は高度成長期以降に見られはじめます。具体的に見てゆくと、高度成長前の1951年には県人口に占める秋田市の比率は9.63パーセントでした。それが高度成長期の1963年には15.25パーセント、1983年22.67パーセントと年を追うごとに増加していきました。それとともに秋田市選挙区の定数も増加してゆきました。

 次に地区ごとの人口と定数の推移をみてゆこう。地区は前述したように中選挙区のときの1区と2区に分けて分析する。旧1区は1950年の国勢調査時点で705,302人で、27人。そのあと1970年には718,900人に増え、県議の数も29人となる。1990年には731,365人に人口は増加するが、県議は28人に減っている。一方旧2区は1950年時点で603,729人で、県議の人数は23人であった。1970年には522,480人と人口は減ったが、県議数も20人に減っている。1990年には496,113人と引き続き人口は減少したが、県議は21人と逆に増加した。こうした現象が起こるのは、個々の選挙区の定数が変わっていないことによるものだろう。

 2015年時点での人口は旧1区630,544人、旧2区は392,575人で1950年よりも人口が減っている。とりわけ旧2区は35パーセント減少している。旧1区は1950年よりも増加しているが、これは秋田市を含めた数値なので、秋田市以外の地域では人口が減少している。秋田市以外の旧1区の人口は、1950年は579,228人であったが、1970年は483,027人、1990年は429,003人、2015年は314,730人と減少の一途をたどっている。

 一人区の数は、多くない。平成の大合併までは2、3選挙区であり、大合併以降も5にとどまっている。比率にすると2003年までは15、17パーセントほどでしたが、それ以後は35パーセント台になっている。

 まとめると、次のようのことがいえるであろう。秋田市の人口は増加し続けている一方、それ以外の地域の人口は減少し続けているし、県全体の人口も減少傾向にある。県議会の総定数は削減したが、個々の選挙区については、それほど変化はないように見える。ただ秋田市は人口の増加に伴って、定数も増えたし、人口が減少した選挙区は定数も減少した。全体的にみれば、選挙区の定数配分は、おおむね配当基数どおりに配分してきたといえるだろう。

【参考文献】                                 

秋田県議会事務局編「秋田県議会史 第1巻~第7巻」1979年~2015年   

塩谷順耳ほか「秋田県の歴史」2001年

総務省統計局 国勢調査のウェブサイト




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