戦後大阪府議会の選挙区定数の変遷

 今回は大阪府議会の戦後の選挙区定数を取り上げます。ただタイトルに戦後と付いていますが、混乱していた1947年の選挙は取り上げず、1951年から2019年の選挙までとしたい。 
 大阪府は、首都圏に次ぐ経済圏を構成している関西圏の中核を担う府県のひとつであり、古くから都と九州、朝鮮半島や中国大陸とを結ぶ物流の中継基地として、繁栄してきました。明治時代以降は、いち早く近代的な工場を建設したり、銀行などの経済の基盤を整備して、経済の先進地としての地位を確立しました。戦前は関東大震災で被害を受けた東京から人口が流入し、わが国で一番の人口規模と経済圏となりました。戦後は首都圏に抜かれましたが、その経済的地位を保っています。このように大阪府は商工業が中心の府県ですが、都市近郊では農業や漁業が盛んに行われてきました。
 ではこのような背景をもつ大阪府議会の選挙区定数を詳細に検討してゆくこととしたい。

 表を見て目につくことが2点確認できる。まず一人区の数が多い。2019年の選挙では、53選挙区中31選挙区が定数1であった。これは率にすると、58パーセントとなる。一人区は、戦後すぐの1951年の時点で44選挙区中23選挙区と52パーセントを占めていた。その後、1963年では52選挙区中29選挙区、2003年では58選挙区中33選挙区といずれも50パーセントを超えていた。大阪府議会の選挙区に一人区が多い理由については、後で明らかにしたい。
 2点目は総定数である。2019年の選挙では総定数が88と、東京都議会や神奈川県議会と比較して、かなり少ないものとなっている。2015年以前は109であり、最高で113議席という時期もあった。総定数が109から88と大幅に減ったため、議員一人当たりの数は上昇した。2011年選挙時には8万人あまりだったものが、2015年では10万741人となっている。議員一人当たりの人数は、1951年には4万4千人あまりだったのが、年々上昇していった。議員一人当たりの人数が10万人を超えれば、人口規模が少ない市は選挙区の維持が難しくなる。大幅定数減の2015年の選挙では、四条畷市、大阪狭山市、柏原市、藤井寺市、高石市、泉南市、阪南市が隣接選挙区と合区を余儀なくされている。また大阪市の行政区においても3選挙区で合区選挙区となった。
 では地域ごとの変遷はどのように推移したのであろうか。次に地域ごとの分析に移りたい。地域割りとして、大阪府内を4つの地域に分ける。すなわち、大阪市、北摂、河内、泉州である。このうち大阪市以外の3つの地域の具体的な自治体について表で見ると、北摂が豊中市から豊能郡まで、河内が守口市から大阪狭山市まで、泉州が堺市から下である。
 まず特徴的なこととして、大阪府の人口に占める大阪市の比率が年々低下傾向にあるこということ。すなわち1950年には大阪市の人口は府の約半分を占めていたが、1970年にはじめて5割を切って、その比率は年を経るごとに低下していった。2000年には29.51パーセントにまで下がっっている。ただ近年都心回帰の現象によって、2015年には30パーセントとわずかながら回復傾向にある。
 では他の地域はどのような推移をたどったのであろうか。まず全般的な傾向から分析したい。人口は3地域とも、1950年代から1990年代まで着実に増加し続けた。だが府内人口の比率を見ると違う側面が現れる。すなわち、北摂地域と河内地域は1990年代まで比率も増加していったのに対して、泉州地域は比率が落ち込んだ時期もあった。具体的には、泉州地域の比率が1950年には16.73パーセントであったが、1970年には16.4パーセントとわずかながら減少しているのである。
 他の地域については、比率も増加した。北摂地域は1950年は10.6パーセントであったのが、1970年には16.6パーセント、2000年には19.7パーセントと増加した。河内地域は1950年は21.9パーセントであったが、1970年には27.8パーセント、2000年には31.4パーセントとなった。泉州地域についても2000年には19.7パーセントと増加している。
 近年は状況が変化している。北摂地域は2015年には20.1パーセントと2000年と比べて増加し、泉州地域も19.7パーセントとわずかながら増加した。しかし河内地域は2000年の人口2,770,678人から2015年には2,619,597人に減少し、比率も29.6パーセントに減少している。
 次に各自治体レベルでの人口の動向を見てゆこう。まず大阪市から。大阪市では、府内における人口比率が1970年にはじめて50パーセントを割ったことは前述した。これはいわゆるドーナツ化現象によるものであるが、大阪市内でも同様のことが起きている。すなわち都心6区といわれる、中央、西、北、天王寺、浪速、福島の各区では、1960年代から人口が減り始めた。70年代、80年代も減り続け上昇傾向に転じたのが2000年代であった。例えば、西区は1960年に73,480人に達したあと、減り続け1995年には58,674人となった。その後増加に転じて、2015年には92,000余人となっている。
 他に特徴的な点は、減少し続ける区と増加し続ける区が存在していることである。減少している区は大正、西成、生野、旭の4区である。これらの区に共通しているのは、戦前から住宅地や工場が立地し、高度成長期になって開発余地がなくなり、工場が郊外に移転し、住民も郊外に引っ越して、人口が減少した。一方、増加し続ける区としては、都島、淀川、鶴見、東淀川、平野の5区があげられる。これらの区に共通する点としては、市の外縁部にあたり、近年まで農地などがひろがっており、開発余地が残された地域が多かったということが挙げられるだろう。
 ではこのような大阪市の人口の変化にたいして、定数はどう対応したのであろうか。大阪市の区は比較的面積が大きな区は少なく、それに伴って人口も10万人以下の区が24区中11区と半数近くを占め、10万人以上の区についても大半が10万人台である(2015年現在)。そのため定数が1ないし2であり、1974年に現在の24区体制になってからは住吉、東住吉、平野の3区のみが定数3の時期があったのみである。定数1と2が多いと、必然的に定数過多と定数過少は発生しにくくなります。それでも、人口の減少に対応しきれない選挙区も存在しました。例えば、1979年~1987年にかけて、定数過多選挙区が発生しました。とりわけ東区と南区は、配当基数が0.50以下であっても選挙区を維持できるとされる特例選挙区となった。
 次に他の3地域の分析に移る。まず先ほども述べたように、戦後この3地域は人口が増加し続けた。ただ人口の動向は、自治体ごとに異なっている。特徴的なのは、地理的に大阪市に近い自治体は高度経済成長が終焉してほどなく人口の伸長が止まったのに対し、大阪市から遠い自治体ほど近年まで増加、あるいは一貫して増加し続けるといった現象がおきている。この現象は、3地域共通してみられるものである。では3地域個別に分析をすすめることにしよう。
 北摂地域は1990年代半ばまで人口増加が続いた。ただ上述したように、大阪市に距離的に近い自治体、この地域では豊中市と池田市が1980年代半ばから減少に転じた。余談であるが、ともに阪急宝塚線の沿線である。戦後一貫して増加しているのは、茨木市のみである。その他の自治体は、増加一辺倒ではない。例えば吹田市は1985年に34万8千人余りのまで増加したが、1980年代後半から90年代前半にかけて減少し、その後増加に転じている。定数については、基本的に配当基数どおりに割り振っているが、急激に人口増加後に一部選挙区において、過少選挙区が発生している。1979年の高槻市・三島郡と茨木市が定数過少であった。
 河内地域についても、1990年代まで人口増加が継続した。この地域においても大阪市に近い自治体は、他の自治体よりも早く増加が止まり減少に転じている。守口市、東大阪市、八尾市、松原市が該当する。守口市と東大阪市は1970年代後半から、八尾市と松原市は1980年代から減少している。対して、枚方市と交野市は増加し続けた。また門真市は1970年代後半にいったん減少し、1980年代から90年代前半にかけて再び増加し、その後は減少していったという特異な動きをみせている。これは松下電器の動向によるものであろう。その他の自治体は、90年代後半に減少に転じている。定数については、北摂地域と同様基本的に配当基数に沿った配分がなされている。しかし、1979年に枚方市、大東市、八尾市で過少選挙区が現れた。また1990年代から2000年代初めは東大阪市と八尾市で過多選挙区、富田林市と羽曳野市で過少選挙区となった。
 泉州地域も戦後人口の増加が続いている。また他の地域と同様の事象も見られる。すなわち大阪市に近い自治体は比較的早く減少が始まっている。大阪市に隣接する堺市は、1980年代から減少している。また高石市も80年代から減少している。表の全期間増加しているのは、泉北ニュータウンが立地している和泉市のみである。岸和田市と泉南市は、2000年代まで増加を続け、その後減少に転じている。泉大津市、貝塚市、泉佐野市は1980年代半ばから減少に転じるも、1990年代後半から再び増加している。これは、1994年の関西国際空港の開港が影響している可能性が高いであろう。堺市は2006年に政令指定都市に移行したが、人口の増減が区によって異なっている。中区、西区、北区は増加しているが、その他の区は横ばいないし減少している。定数の面では、他の地域と同様に概ね配当基数に沿った配分がなされている。しかし、ところどころに過少選挙区と過多選挙区が出現している。1979年の和泉市、1983年の堺市、2007年の堺市東区および美原区と岸和田市が過少選挙区となった。また1995年と1999年の堺市は過多選挙区となった。
 まとめると、次の点が指摘できるであろう。まず定数配分にかんしていえば、概ね配当基数に沿った配分がなされている。大阪府の人口動向は、高度経済成長期に大阪市から郊外の自治体に流出したが、そのような人口変動にも定数配分において、配当基数どおりに対応できた。だが一部の選挙区では、散発的に定数過多あるいは定数過少の選挙区が現れた。
 このように大阪府議会は比較的、定数配分が基準通りに配分されてきているといえるが、それは大阪市内の選挙区を中心に1人区、2人区が多いことによるものであることを指摘したい。上述したように、大阪府議会は戦後すぐの時点で1人区の割合が5割を超えており、現在も同水準である。定数配分が基準通りに配分されているのは、1人区、2人区が多いことで作用している面もある。大阪府議会は、2022年2月に条例を改正して、2023年4月の選挙から新たな定数で行われる予定である。それに伴い、総定数は88から79に削減され、1人区が現在の31から36に増加し、比率も58.49パーセントから67.92パーセントに増加する。大阪市内だけでなく、その他の地域の選挙区でも1人区が増加している。その影響が今後どのように作用するのか、注視する必要がある。

(参考文献)
大阪府議会史編さん委員会編「大阪府議会史 第5編~第9編」1980年~2005年
大阪府議会のwebサイト
大阪府選挙管理委員会のwebサイト

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