戦後愛媛県議会の選挙区定数の変遷

 これまで都道府県議会の戦後の選挙区定数の変遷を取り上げてきましたが、今回は愛媛県です。
 愛媛県は、農業ではみかんや伊予柑などの柑橘類の生産が盛んです。また古くから東部の別子銅山で銅の採掘が行われており、その地理的条件を生かし、明治以降化学工業をはじめとする製造業が県東部で盛んになりました。
 愛媛県は江戸時代、松山藩、宇和島藩、西条藩など8つの藩に分かれて統治されていました。いわゆる「伊予八藩」と呼ばれるものです。このような歴史的要因からなのか、あるいはいくつかの山地によって隔てられた地理的要因からなのか、それぞれの地域によって気風や習慣などが異なっています。大きく分けて3つの地域に分かれます。いわゆる東予、中予、南予です。
 東予は県東部の地域の総称で、先ほども記したように工業地帯であり、製造業が盛んです。中予は県中部の地域で、県庁所在地の松山市は国の行政機関や企業の支店が集中しており、経済面ではいわゆる支店経済の特徴をもっています。また松山には日本三大名湯のひとつ道後温泉があり、観光都市の側面もあります。南予は県西部の地域をさし、柑橘類の生産をはじめとする農業、静かな内海での養殖などが行われ水産業が盛んな地域でもあります。
 このようにそれぞれ特徴をもつ3つの地域が、関係が良好かといえば、そうでもないのが実情のようです。愛媛県政は、3つの地域のバランスをいかにとるかが、県政運営の要のひとつとなっています。それでは、戦後の愛媛県議会の選挙区定数をみてゆくことにしよう。


 まず分析の枠組みとなる地域区分は、前述した東予、中予、南予の3地域です。具体的な市と郡は次のとおりです。1951年当時
東予(今治市、新居浜市、西条市、越智郡、周桑郡、新居郡、宇摩郡)
中予(松山市、温泉郡、上浮穴郡、伊予郡)
南予(宇和島市、八幡浜市、喜多郡、西宇和郡、東宇和郡、北宇和郡、南宇和郡)
 最初に戦後の県人口の推移について見てゆこう。終戦直後の時期(表に掲載していない)は人口が増加していました。1950年代半ばになると、減少傾向に転じます。その傾向が1970年まで続きます。つまり高度成長期の時期と重なります。1970年代、1980年代前半は増加してゆきましたが、1985年を頂点として一貫して減少傾向が続いています。総定数は1950年代には53議席でしたが、人口減少に伴い減って1975年に51となりました。その後人口の増加に伴って、1983年には53まで回復しました。ただその後の人口減少によっte
現在は47議席となっています。
 次に各地域の人口変遷を見てゆこう。東予は1950年で554,437人であったが、県の人口推移と同じ歩調で1970年には531,385人、1990年では543,879人,
2015年では480,739人となっています。中予は1950年時点では432,896人でしたが、その後1970年には495,144人、1990年には622,142人、2015年では646,055人となって、一貫して人口が増加しました。南予は、1950年には534,545人、1970年では391,565人、1990年349,004人、2015年では258,468人となって、人口が減り続けています。1950年時点では多い順に東予、南予、中予でしたが、1970年では中予と南予が逆転し、1990年においては中予が東予を抜いています。
 3地域のそれぞれの定数については、東予は表の期間中18議席前後で推移し、変動はあまりない。中予は、1951年は15議席でしたが、人口の増加に伴って1971年18、1995年20議席と増加しました。現在は20議席です。南予は1951年には19議席を有していましたが、人口の減少によって1971年15,1995年13議席となり、現在は10議席となっています。
 続いて各地域内部の人口を少し詳しく見てゆこう。まず東予から。今治市は、1980年代までは増加していたが、その後減少に転じた。周桑郡、東予市は1970・80年代前半は微増したが、それ以後は横ばいで推移している。新居浜市は1980年代までは増加したが、以後は減少している。西条市は1980年代増加している。川之江市、伊予三島市のいわゆる宇摩地区は、表の期間中ほぼ横ばいである。
 定数については、今治市と越智郡のいわゆる越智地区と新居浜市の定数が1議席減った以外は変動しなかった。
 続いて中予地域について。まず人口から見てゆくことにすしよう。前述のとおり中予は表の期間中増加し続けたのであるが、自治体ごとで見るとその濃淡は異なっている。松山市は表の期間中増加し続けている。1950年で163,859人であったのが、2015年には523,312人まで増加している。温泉郡と伊予郡は1960年代は減少傾向にあったが、1970・80年代になると人口が増加した。北条市と伊予市は1970年代に増加したものの、それ以外の期間は横ばいである。上浮穴郡は、表の期間中減少を続けている。
 中予地域の定数は、松山市については人口増加を反映して1983年までは増加していったが、それ以後14議席でなかば固定された。平成の大合併によって16に増加したが、それ以上は増加していない。これは松山市が県の関与が少ない中核市であることが関係しているだろう。温泉郡と上浮穴郡は1議席減ったが、その他の選挙区に変更はない。
 最後に南予地域について。前にも記したように南予の人口は減り続けている。しかし人口減少は自治体によって違っている。大洲市は1970年代に減少は止まってその後横ばいとなった。また宇和島市は、減少が1970年にいったん下げ止まり横ばいのあと、再び減少に転じている。その他の自治体は、表の期間中減少が続いている。
 定数は前述したが、人口減少を反映して減っている。ただ急激に人口減少が進んだためか、選挙区によっては定数過多選挙区になった事例がみられる。例えば宇和島市選挙区(2007年から宇和島市・北宇和郡選挙区)の場合、1995年・1999年、2007年~は定数過多選挙区である。八幡浜市や西宇和郡、東宇和郡も1980年代後半からたびたび定数過多となっている。また愛媛県の定数過多選挙区の多くが南予地域となっている。
 なおここで一人区の数について触れておこう。戦後すぐの1951年では、18選挙区中1選挙区のみであった。その後昭和の大合併を経た1963年になると、22選挙区のうち5選挙区が一人区となり、22.7パーセントにまで増えた。さらに高度経済成長を経て、市への昇格や人口減に伴う選挙区の定数減によって一人区が増えて、2003年には23選挙区のうち14選挙区と6割の選挙区が一人区となった。平成の大合併ののち2019年には、13選挙区中4選挙区となり、その割合は3割まで低下している。
 戦後愛媛県の人口構成は、県都松山市とその周辺部の人口が増加したが、その反面南予地域を中心に人口減少が進んだ。県議会の選挙区定数は、ある時期まで状況の変化に対応していたが、中途半端な対応に変わり、いくつかの定数過多と定数過少の選挙区を発生させた。そうした府県は、全国各地でみられるが、愛媛県も典型的な例のひとつといえる。

(参考文献)
愛媛県議会史編さん委員会編「愛媛県議会史 第5巻~第10巻」1989年~2012年
内田九州男ほか「愛媛県の歴史」山川出版社 2003年
愛媛県議会のwebサイト
愛媛県選挙管理委員会のwebサイト
 
 
 


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