戦後の鹿児島県議会の定数配分

 今回は鹿児島県議会の選挙区の定数配分を取り上げます。鹿児島県は、九州最南端に位置し、比較的温暖な気候でしられています。薩摩半島と大隅半島という2つの半島がある九州本土と、種子島、屋久島、奄美群島などからなる薩南諸島が、県の領域です。
 古代においては、一部の住民が「隼人」と呼ばれ、大和の中央政府に抵抗しましたが、やがて中央政府の支配に組み込まれていきました。戦国時代から江戸時代にかけては、島津氏が領国を支配しました。島津氏は1609年に琉球出兵を行い、その際奄美を支配下に組み込みました。奄美で生産されるサトウキビを原料として砂糖を生産し、それを輸出して莫大な富を蓄積しました。幕末には長州とならんで討幕の中心勢力となり、明治新政府において中核となる人材を供給しました。
 産業面では、北海道とならんで農業の一大生産地です。日本一の生産高のサツマイモや、茶などがあります。また畜産においては、養豚業が盛んです。水産業では、枕崎市を中心に鰹節の生産がさかんです。
 製造業では、上で記したように農業が盛んであることから、食品加工業が盛んです。サツマイモを原料とした焼酎の生産を中心とした酒造業は代表的なものです。また重化学工業では、鹿児島市喜入地区に石油コンビナートが立地していますし、創業者の出身地ということで京セラの工場も県内各地に立地しています。
 ではこのような背景をもつ鹿児島県議会の戦後の選挙区定数の配分状況をみてゆきます。

 まず分析の基礎となる地域の区分けについて説明します。地域割りは、鹿児島南薩地域、北薩・姶良伊佐地域、大隅地域、熊毛・奄美地域の4つの地域とします。この4区分は、かつての衆議院中選挙区時代の選挙区割りと似通っています。
 具体的な4つの地域の市と郡は次のとおりです。鹿児島南薩地域は、1951年当時では、鹿児島市、枕崎市、串木野市、鹿児島郡、揖宿郡、川辺郡、日置郡。現在では、鹿児島市、指宿市、枕崎市、南九州市、南さつま市、いちき串木野市、日置市、鹿児島郡となっています。北薩・姶良伊佐地域は、1951年当時では川内市、薩摩郡、出水郡、伊佐郡、姶良郡。現在では、薩摩川内市、阿久根市、出水市、伊佐市、姶良市、霧島市、薩摩郡、出水郡、姶良郡です。大隅地域は、1951年当時は、鹿屋市、曾於郡、肝属郡。現在では、市として志布志市、曽於市、鹿屋市が加わっています。熊毛・奄美地域は、1953年当時では名瀬市、熊毛郡、大島郡。現在では西之表市が加わっています。
 では分析に移ろう。最初は県全体の人口の推移をみてゆこう。県の人口は1955年には204万人であったが、その後減少する。1975年の172万人あまりを底に1985年には181万人まで回復したが、その後徐々に減少してゆき、最新2020年の人口は158万人余りまで減少している。
 地域ごとの県全体に占める人口比率については、1950年時点で鹿児島南薩地域が36.2%、北薩・姶良伊佐地域が30.4%、大隅地域が19.2%、熊毛・奄美地域が14.1%であった。それが1970年には、鹿児島南薩地域が42.9%にまで伸びたのに対して、北薩・姶良伊佐地域が26%、大隅地域が17.6%、熊毛・奄美地域が13.4%に減少した。
 鹿児島南薩地域のみが人口比率が増加するという現象は、その後も続いた。1990年には47.3%、2020年には50%にまで達している。一方、北薩・姶良伊佐地域は26%台をキープしているが、大隅地域と熊毛・奄美地域は、減少している。2020年の比率は大隅地域で14.1%、熊毛・奄美地域で9.1%まで低下した。
 続いて各地域ごとの分析に移ろう。最初は鹿児島南薩地域から始めよう。この地域は上述したように人口の増加が続いている。ただこの増加は主に鹿児島市のみにみられる現象である。具体的には、1950年の時点で22万人余りの人口をすでに擁していたが、1970年には40万人、1990年には55万人あまり、最新の2020年には59万人にまで増加している。県内人口に占める比率は、1950年時点では11.4%であったものが、2020年には37.4%まで伸長している。
 鹿児島市以外の南薩地域では、逆に人口、比率ともに減っている。市町村合併がなかった1970年と1990年を比較すると、1970年には人口が33万8千人あまりで比率が19.6%であった。それが1990年になると、人口が29万6千人あまりに減少し、比率も16.5%まで低下した。市町村合併が行われたため一概に比較できないが2020年では、人口が19万9千人あまり、比率は12.6%である。
 南薩地域の人口の増減をみると、市部では60年代には減少していたが、70年代・80年代は横ばいとなり、90年代にはいると再び減少していった。郡部については、表の期間中減少が続いている。ただ日置郡のみが80年代・90年代に増加した。これは鹿児島市に隣接している旧伊集院町や旧松元町を中心にニュータウンや宅地が新たに造成されたためである。
 次に北薩・姶良伊佐地域を見てゆこう。市部ではいったん減少したもののその後増加に転じた自治体がみられる。例えば、川内市(薩摩川内市)は60年代・70年代は減少していたが、80年代・90年代には増加した。また国分市(霧島市)は60年代は減少していたが、70年代以降増加した。一方出水市は70年代前半まで減少したあと、横ばいの状態で推移したが、2000年代以降減少に転じた。また阿久根市と大口市(伊佐郡)は減少が続いている。郡部は、国分市に隣接している姶良郡は60年代は減少したが、その後増加に転じた。出水郡は60年代・70年代前半は減少していたが、その後横ばいとなった。薩摩郡は表の期間中減少が続いている。
 大隅地域は前述したように減少傾向が継続している。鹿屋市のみが、70年代以降に増加しているが、その他の自治体では減少傾向が継続している。
 熊毛・奄美地域も上述したように減少している。ただ熊毛と奄美では、その推移は異なっている。熊毛(西之表市も含む)では、表の期間中減少が続いている。それに対して、奄美は減少傾向であるのは一致しているが、名瀬市については80年代前半まで増加し、その後減少に転じており、減少一辺倒だったわけではない。
 では次に定数の分析に移ろう。鹿児島県議会の定数は、戦後概ね人口比例どおりに配分されてきているといえるであろう。ただ1995年にはじめて定数過多、定数過少の選挙区が現れて、2011年以降過多、過少の選挙区が継続して現れるようになった。表を見ると過少選挙区は、1995年、2011年以降の鹿児島市と、1995年の姶良郡のみである。姶良郡は1回のみであるので、問題となるのが鹿児島市である。ではもう少し詳しく、鹿児島市の定数の推移を検討しよう。
 これまでも述べたように、鹿児島市の人口は右肩上がりに増加した。それに伴って定数も増加した。1951年には7議席だったのが、1959年には8議席に増え、その後選挙のたびごとに増えていった。1975年には13になり、1983年には17にまで増えた。市の人口はその後も増え続けた。ところが定数は17のまま留め置かれるようになった。これがそのまま続いて、1995年には定数過少となったわけである。
 その後周辺の自治体を合併したため、2007年の選挙では19に増員された。しかし次の選挙から総定数が54から3議席減って51となったとき、再び17とされた。このように配当基数よりも定数が減らされているのは、県議会の議論から「全国でいちばん定数が多い」という不可解な理由で減らしたということである。その減らした定数はどこにいったかというと、西之表市・熊毛郡(種子島、屋久島)と奄美市(奄美大島)という離島である。離島部に基数よりも多く配分することは「離島地域・過疎地域への配慮」(2009年10月8日 県議会本会議 外薗勝蔵議員の発言)のためである。
 しかし鹿児島県議会では、離島地域と同じく人口減少が続いている薩南、伊佐、大隅地域などには定数上の配慮をしていない。鹿児島市のような減らされる選挙区が無いということもあるかもしれないが、離島地域の振興がなによりも鹿児島県(県議会)の県政上の優先度が高いことを示している。
 このように鹿児島県議会は過疎地域における「配慮」を離島部のみに行っているわけだが、これが鹿児島県議会の特徴である。他の県議会、例えば大分県議会では、大分市の議席をまんべんなく過疎地域の選挙区に配分している。
 全般的にみれば、鹿児島県議会の定数配分は2003年までは概ね人口比例どおりに配分されていたし、それ以後も前述の過疎地域への配慮以外は、人口どおりに定数が配分されている。しかし鹿児島市の定数が前述したような不可解な理由によって削減されているのは、改善されなければならないであろう。
(参考文献)
鹿児島県議会「鹿児島県議会史 2巻、別巻」1971年
原口 泉ほか「鹿児島県の歴史」山川出版社 1999年
鹿児島県議会のwebsite
総務省統計局国勢調査のwebsite
 

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