青森県議会選挙区定数の研究

 今回は青森県議会の選挙区定数を取り上げます。戦後の各選挙区の定数について考察します。なお期間は、1951年以降とします。戦後すぐは、国勢調査が戦前のもので、実態と乖離していると思われるからです。
 青森県は、津軽と南部の2つの地域に大別されます。ただこの2つの地域の関係は、歴史的経緯などから犬猿の仲と言われています。青森県の政治において、たびたび対立をおこしてきました。
 青森県が設置されたのが、廃藩置県から間もない1871(明治4
)年です。廃藩置県が7月15日で、青森県(当初は弘前県)が設置されたのが9月ですので、相当早いことがわかります。これは、戊辰戦争によって疲弊した南部藩と斗南藩(戊辰戦争に敗れた会津藩が懲罰的に下北半島に移されてできた藩)が打開策として、比較的余裕のあった弘前藩に助けを求めるために行ったといわれています。
 青森県議会の選挙区定数は、地域区分として津軽と南部ほ基本とします。では具体的に見てゆきましょう。

 まずは津軽と南部の人口と定数の変化をみてゆこう。なお津軽は、青森市、弘前市、黒石市、五所川原市、つがる市、平川市、東津軽郡、西津軽郡、北津軽郡、南津軽郡。南部は、八戸市、むつ市、十和田市、三沢市、下北郡、上北郡、三戸郡。実は津軽と南部ともに定数はそれほど変化していない。津軽は1951年には30議席で、その後もあまり変化なく推移し、2019年は少し減って27議席です。人口については、1960年代から2000年頃までは都市部は人口が増加していたが、郡部では減少した地域もみられる。ただ都市部においても2000年代以降は減少しており、津軽全体では2015年は734,060人で、1951年の766,611人より下回っています。

 また青森、弘前、八戸の三大都市の定数の推移をみても、1950年代の昭和の大合併以後、あまり変化はありません。ただ青森と弘前は1980年代から平成の大合併の直前の2003年まで定数過少選挙区でした。その対をなす定数過多選挙区だったのが、南津軽郡と北津軽郡でした。この2選挙区が定数を多めに配分されていた理由は不明です。

 一人区の数は多くない。1951年の時点では存在しない。昭和の大合併で市が増加しても、1963年では15選挙区中2選挙区です。平成の大合併直前は、15選挙区のうち3選挙区という状況でした。この状況が平成の大合併によって市が増加し、郡が縮小することによって、一人区が増加します。2019年の選挙では、16選挙区中7選挙区、率にして43パーセントとなっています。なお任意合区、すなわち配当基数0.50~0.99に該当する選挙区は、平成の大合併後に初めて現れます。

 青森県の特徴として、人口が突出した都市が存在しないことが挙げられます。すなわち、青森、弘前 八戸という三大都市が、あまり人口の差がなく並立している状態です。これは他の県にはあまり見られない特徴です。例えば隣の秋田県は、秋田市という突出した人口を有する都市が存在します。日本ではむしろ秋田のような県が多いのです。東北では秋田の他に岩手や山形もそうですし、九州各県も県庁所在地が突出した人口を有する都市ばかりです。このことが、青森県議会の選挙区定数に何らかの影響を及ぼしていると推察されます。

 最後に繰り返しになりますが、戦後青森県議会の選挙定数の特徴としては、あまり大きな変化がないこと、一人区の選挙区が少なかったことが挙げられるでしょう。


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