茨城県議会の選挙区定数の変遷

 今回は、茨城県議会の戦後1951年からの選挙区の定数の変遷を取り上げます。終戦直後は混乱した時期なので、取り扱いません。
 茨城県は様々な顔を持つ県です。東京に近い南部はベッドタウンとして開発が続けられていますし、筑波研究学園都市は様々な研究機関が集積しています。また鹿島臨海工業地帯や日立市は重工業の一大拠点です。一方で農業産出額が北海道、鹿児島県についで第3位という農業県でもあります。
 これから見てゆく各地域にも、それぞれ特色があります。江戸時代は御三家のひとつ水戸徳川家の領地が多くを占めましたが、笠間藩や古河藩、松岡藩(高萩市)のように譜代大名が支配した地域もありました。そのため、地域同士のつながりが弱いということも指摘されています。

 なお茨城県議会は1966年12月に議長選出に絡む汚職事件をきっかけに解散し、それ以後統一地方選と異なる時期に選挙を行っている。
 まず分析の基礎となる地域区分は、次のとおりである。県央、県北、鹿行、県南、県西の5つである。具体的に1951年当時の市と郡では、
県央(水戸市、東茨城郡、西茨城郡)
県北(日立市、那珂郡、久慈郡、多賀郡)
鹿行(鹿島郡、行方郡)
県南(土浦市、稲敷郡、新治郡、筑波郡、北相馬郡)
県西(古河市、真壁郡、結城郡、猿島郡)
なお鉾田市は元来鹿島郡に属して鹿行地域ですが、選挙区の再編により2018年から東茨城郡茨城町と大洗町を合区し新たな選挙区となったので、再編後は県央地域として取り扱うこととします。
 茨城県で特徴的なのは、人口30万人以上の自治体が存在しないことです。一番人口が多い水戸市で27万人、ついでつくば市の24万人で、人口10万人以上の自治体も日立、土浦、ひたちなか、筑西、古河、取手の6市です。このように、とびぬけて人口規模の大きな自治体が存在しないというのが茨城県の人口分布の特徴であり、このような県は他に三重県と山口県が該当します。
 では各地域の変遷を詳しくみてゆきましょう。まず県央地域からです。県央地域は、期間を通じて人口が増加しています。1950年は334,022人、1970年391,804人、1990年483,763人、2020年503,894人と増加する一方です。水戸市は近年まで人口が増え続けましたし、東茨城郡の南部は1970年代から1990年代にかけて人口が増加しています。西茨城郡も1970年代から人口が増加しています。その一方、東茨城郡の北部は1980年代、1990年代は人口が微増にとどまり、笠間市は微減傾向です。
 定数については、概ね配当基数に沿った配分がされていますが、水戸市が1986年~1994年に定数過少選挙区となり、2002年に東茨城郡南部、2010年に水戸市が定数過多選挙区となっています。
 次に県北地域です。県北地域の人口は、1950年532,130人、1970年580,413人、1990年658,049人と増加していましたが、2020年では595,587人と減少しています。県北の中心都市である日立市は、人口が増加していましたが、1980年代後半をピークに減少に転じます。勝田市(現ひたちなか市)は現在まで増加し続けています。北茨城市は1960年代1970年代は人口が減少していたが、80年代90年代になると増加してゆきました。久慈郡は表の期間中減少し続けています。
 定数は、久慈郡で1980・90年代、日立市で1980年代に定数過多選挙区になったケースがでてきました。日立市では、日立製作所の経営方針や工場などの人員配置などによって、人口動向が左右されたと考えられます。久慈郡は高度成長期からの農村部から都市部への流出によって、過疎が進んだ状態になっています。こうした要因によって、県北の人口減少が進み、後述する県南の人口が急増し、「南北問題」が県政の重要な課題となりました。本来定数は、人口比率によって配分されますが、久慈郡や日立市では定数配分が従来のまま行われた結果、定数過多選挙区になりました。
 鹿行地域は1950・60年代は人口が減少していました。1950年は204,811人でしたが、1970年には196,773人となりました。鹿島臨海工業地帯の整備によって、1970年代以降増加しました。そのため、2006年・2010年には定数過少選挙区がみられるようになりました。
 県南地域は、県内で最も人口が増加した地域です。1950年は509,876人、1970年は520,076人でその間の人口の伸びは緩やかでした。その後、東京への通勤圏として宅地開発が進んだり、筑波研究学園都市の整備などによって、人口が飛躍的に増加しました。1990年には877,415人、2020年には1,006,531人と増え続けました。
 少し具体的に見てゆくと、土浦市は県南の他の自治体で減っていた1960年代において、唯一人口が増加した市でした。人口が増加していますが、近年ではその伸びは鈍化しています。人口が減少している自治体も出始めているなかでも、つくば市、つくばみらい市、守谷市の3市は増加し続けています。これはつくばエクスプレスの開業によって、利便性が向上しているため、宅地造成や企業の進出などがあったためと思われます。
 このように人口が急増した県南地域ですが、定数のほうはどのように対応したのでしょうか。1951年時点の定数は15でした。その後、1974年には人口が増加しているにもかかわらず14と減らされています。しかし人口が急増したことから、地域全体の定数も1994年18、2022年21と増加しました。地域的には、常磐線沿線の稲敷郡は1982年~2010年にかけて定数過少選挙区でした。また龍ヶ崎市、牛久市、つくば市は1990・2000年代、北相馬郡は1980年代に定数過少選挙区となったことがありました。
 県西地域はどうでしょうか。県西地域の人口は、1950年458,579人だったのが、1970年には454,665人と減少しました。それが1990年には565,491人と増加に転じました。しかし2020年になると538,804人とまた減少傾向に転じました。具体的に見てゆくと、国鉄東北本線(現JR宇都宮線)沿線の古河市は1990年代前半まで人口が増加していました。一方県西地域の他の自治体では、1960年代は減少していましたが、1970年代に増加に転じました。その後2000年前後から大半の自治体で減少傾向になりました。定数配分の面では、1982年から2002年まで古河市が、1994年から2006年まで下館市が定数過多選挙区となった。
 定数配分にとって重要な指標が数とともに比率です。1950年時点では県北地域が26.09パーセントで一番比率が高く、次いで県南地域の25パーセントでした。1970年でも傾向は同じで、県北27.08パーセント、県南24.26パーセントでした。それが1990年になると県南地域の人口が急増し、比率も30.84パーセントと県北の23.13パーセントを抜いて県内で一番比率の高い地域となりました。その傾向は現在も変わらず、2020年は県南35.11パーセント、県北20.77パーセントでその差は開きました。
 他の地域の県内での人口割合も見ましょう。県央地域は1950年で16.38パーセント、その後も17~18パーセント台で推移して、2020年は17.58パーセントです。鹿行地域は1950年時点で10.04パーセントでしたが、その後比率は下がって9パーセント台となりました。2020年は前述したように区域が狭まったので、7.75パーセントでした。県西地域は1950年は22.49パーセントありましたが、1970年21,21パーセント、1990年19.87パーセント、2020年18.79パーセントとその割合は低下していきました。この県内の人口割合からは、いかに県南の人口が急増し、県の人口バランスが変化したかを示すものだといえます。
 一人区は1951年で5.56パーセントでしたが、昭和の大合併後の1963年には30選挙区中12選挙区で4割に達し、平成の大合併中の2006年には35選挙区のうち19選挙区と5割を超えました。2022年では32選挙区中14選挙区です。
 戦後の茨城県議会の選挙区定数の配分をまとめると、次のように指摘できるだろう。1950・1960年代は重工業生産の拠点のひとつ日立市を中心とした県北地域が人口で他の地域を凌駕しており、定数配分においても人口比率に則って配分されていた。だが1970年代にはいると県南地域において、東京圏の通勤の拡大に伴って宅地開発が進んだり、筑波研究学園都市の整備によって、人口が急増し県北地域を追い越した。県議会の定数配分もそうした状況に対応したが、一部の選挙区において定数過少選挙区や定数過多選挙区が生まれ、稲敷郡選挙区のように定数過少が放置された選挙区もあった。一方県北地域では久慈郡や日立市のように、長年定数過多となっていた選挙区も存在した。茨城県議会の選挙区定数配分は、1970年代以降に起こった人口変動によって、変動を迫られたが、従来のままの定数配分が行われ、近年になって人口比率に近い定数配分が行われてきたと言えるでしょう。

(参考文献)
茨城県議会史編さん委員会編「茨城県議会史 第5巻(戦後編)」1979年
茨城県選挙管理委員会「選挙の記録」
長谷川伸三「茨城県の歴史」山川出版社 1997年
(web)
茨城県議会
茨城県選挙管理委員会
総務省統計局国勢調査のサイト
 
 


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