オンラインミーティングツールで考える定型発達と発達障害

「オンラインミーティングツール」と聞いて、みなさんが思い浮かべるのはなんだろう?

今なら「ZOOM」を思い浮かべる人が多いだろう。
私が学生だった一昔前は、オンラインミーティングツールといえば「Skype」だった。初めて使ったときは、こんな便利なものが無料で使えるのか!と私は感動したのだが、「Skype」を使っている人は今となっては少数派だろう。

もはや事実上の標準、つまりデファクトスタンダードはZOOMになってしまったと言える。

多数派、標準…そこから逸脱した少数派。

それは定型発達者と発達障害者の違いと同じだ。

みんなが「ZOOM」を使っているのに、なぜか「Skype」しか使えない仕様になってしまった人。
それが発達障害者。

大学のゼミでもいい、サークルでもいい、会社のオンライン会議でもいい。

とにかく、何かのオンライン会議をすることになったと仮定する。

みんな「ZOOM」を使っているので、「ZOOM」を使いましょう、ということになる。
しかし、自分だけはなぜか「ZOOM」がインストールできない。なぜだか原因はわからない。そして直しようもない。みな「ZOOM」で会議を始めているのに、なぜか自分だけは参加できない。

一方、「Skype」ならインストールしてログインできた。
みんなに「ZOOM」はやめて、「Skype」を使ってくれないか?と頼んでみる。
しかし、みんなは
「使い慣れた『ZOOM』のほうがいい」
と言って、取り合ってくれない。

その上、
「『ZOOM』をなぜ使わないのか?それはお前のワガママだ」
「『ZOOM』が使えないのは、お前のパソコンの使い方が悪いせいだ」
と言われたら、どんな気持ちになるだろう?

理解してくれない仲間への憤り、
なんでこんな仕様になったのかという
自分自身への苛立ち…

それが、私たち発達障害者の日常なのだ。

発達障害者の日常

発達障害者とひとくくりにするのはとても乱暴なことで、発達障害者は多種多様な個性をもっているという前提のもと、あくまで私の主観をお話する。

朝起きる。スマホの画面を見る。
好きな連載とかニュースに目を通す。
たくさんのイメージが放射線状に拡散して、頭の中に様々な情報が飛び交う。
一旦スマホを置いて着替えようと思っても、飛び交う情報で脳内の容量がパンクして上手く取りかかれない。

出かける時間になる。
でも頭の中は上の空。
玄関までフラフラっと歩いて行って家を出る。
マンションのエントランスに来て、鍵を締めたか心配になって引き返す。
鍵はかかっていたけど家に戻ると電気はつけっぱなし。

電気を消して、鍵を締めて気を取り直して出発する。

子どもを保育園に送り届ける。
と、思ったらお昼寝のパジャマを忘れた。
先生に謝って、子どもにも謝る。

朝のニュースが気になったまま、フラフラっと駅に向かう。
電車がもう到着していて、慌てて飛び乗る。

会社につく。同僚の電話の内容が気になって仕方ない。
どうやら顧客に間違った回答をしている。
電話をおいた同僚に、「さっきのこことここ、間違ってる」と思った通りに言ってしまって気まずくなる。

人の顔と名前が覚えられない。3ヶ月前に入社した同じフロアの同僚の名前が出てこないので、座席表を確認する。
ちなみにフロアには20人も在席してない。

電話の音、来客の音が気になってしまうのでイヤホンをつけて仕事する。

隣の同僚から、シャカシャカうるさいと注意される。
でも外すと全く集中できない。

場所が覚えられない、道にすぐ迷う。

と思ったら、爆発的な集中力を発揮して成果を出すときがある。(ので、一応クビにはならない。)

家に帰ったら、会社で集中しすぎてものけの空になっていて、子どものご飯とお風呂で精一杯。

洗濯物を片付ける余裕はなく、そのままベッドに倒れ込んで、子どもより早く寝てしまう…。

私はADHDなので、脳の多動が激しい。
いつもバックグラウンドでいろんなアプリが起動しっぱなし。
一つのことに集中する、たったそれだけのことが困難なのだ。
そして、脳の一時的、揮発性メモリが常に圧迫されているので思ったことは「すぐ」言わなければ一生思い出せなくなる。どれほど重要なことでも。
そしてその思い出せないという事実がまた脳の容量を圧迫するので、後先考えてから発言するということが困難。

これが私の日常であり、私の脳の生まれつきの仕様なのだ。

みんなとできることが違うということ。
それはほんとうはみんなにとっても幸せなことのはず。

冒頭の「ZOOM」と「Skype」の話に戻そう。
皆が「ZOOM」を使っているのに、自分だけ使えないというのはとてもつらい。

それは、みんなが当たり前にしている戸締まりだったり、時間通りに出掛けたり、ちゃんと目的地に行ったり、そういうことができない。
それは、一言で言うと「一つひとつのタスクに集中して取り組む」という、ごく当たり前のことがとても困難だからだ。
(これはあくまで一例。発達障害でも自閉症スペクトラムやLDなら大きく違うだろうし、ADHDも人によって得意不得意は全然違う、ということを改めて強調させてもらう。)

私は発達障害者であって、普通の人ができることができなかったり、普通の人が困難なことがさらっとできてしまったりする。

でも、世の中のオンライン会議システムが「ZOOM」だけになってしまって、他の選択肢が無くなるというのは、とても不便なことなのだ。

もし、ZOOMにセキュリティ上の問題が見つかって使えなくなったら?
「ZOOM」しかツールがない、となると世界中でオンライン会議ができなくなってしまう。

だが、「Skype」しか使えない人がいたとして、そういう人たちが細々とでも「Skype」を使い続けているために「Skype」のサービスが維持されていたら、「ZOOM」の代わりとしてオンライン会議は一応できる。

これは定型発達と発達障害にも同じことが言える。みんなが同じ脳の仕様であって、同じ考えしかできない、というのはとてもリスキーなことなのだ。
いろんな考え方や発想があって、補完しあいながら世の中は成り立っている。

もっと具体的な話をしよう。
定型発達のあなたが、うつ病になったとする。
思考が定まらず、疲労困憊で出かけることもままならない。
でもそれが日常的に起こっている発達障害者がのびのびと暮らしていける世の中ならどうだろう?
うつを患ったあなたが、私たち発達障害者をみて
「ああいう変わった人たちもちゃんと生きていってるなぁ」
と感じられれば、少しでも気が楽になりはしないだろうか?

ほかにも例えてみる。
例えばとても嫌なことがあった日があって、もう、明日が来るのも嫌だと思う日があるかもしれない。

そんなときに、自分の何十倍も繊細な心を持つ人たちが、あなたの苦しみをエッセイや、小説や、詩や、音楽や、絵や、彫刻やそういったもので代弁してくれたら、心が軽くなりはしないだろうか?

自分とは違う人がいるということ、それはとても価値のあること

定型発達者のかたからすると、発達障害者の言動は理解に苦しむでしょう。
それでも、どうか私たちなりのやり方を認めて欲しいのです。
そして、私は発達障害者として、私ができないことを日々きちんとしてくれている皆さんに感謝しています。

ありがとうございます。

わかり合いたい、という気持ちのもとで、みなさんとつながっていきたい。

それが私の願いです。

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