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〜家族構成〜

前回のお話で触れた様に、
僕は【お坊ちゃん】でした。
妹ももれなく【お嬢ちゃん】でした。
でも、それは見栄っ張りな両親が作ったエゴの塊だったと今でも思います。

父親は札幌のススキノ生まれススキノ育ち。
これだけ聞けば、今や言わずと知れた北海道札幌市を代表する繁華街。
煌びやかに聞こえるでしょう。
ですが、"ススキノ"は
本来漢字表記で"薄野"と書きます。
その昔は"薄野原(すすきのはら)"だったから
"すすきの"。
要はススキやスゲ等の植物の"茅(かや)"が生い茂っていたから。と言う説がある程です。
戦後間も無い当時の父親が少年の頃には、野生のトカゲやヤモリをススキノで採っていたそうです。
今では考えられませんね。
父親の生家はとても貧しく、牛乳配達業で生計を立て、何とか学費を捻出し、父親を北海道大学に、その弟(叔父)を専修大学に送り出したそうです。


一方、母親は終戦から2年後程の生まれの女性。
小樽市の石材屋で材を成したという曽祖父の元
三姉妹の長女として育つ。
母親の情報はあまり知らない。

決して裕福ではなかった父親と、そこそこの家庭の母親2人が結婚し、
旭川という街に移り住み、僕らが生まれ、
バブルの影響もあったのか、はたまた関係ないのかは今となっては知る由も無いが、
父親は自営業で医療機器の販売の会社を生業としていた。
といっても、従業員がいる訳でも無く、
事務所とするアパートの一室を近所に借りて、荷物が所狭しと並ぶ"雑多小屋"の様な"会社"であった。
しかし、医療機器の販売は売れるとデカい。
一台35万から始まり、高い物だと100万を超える金額だったのを記憶している。
良く言えば【ベンチャービジネス】であり、
反面、売れなければ【おまんま食い上げ】な訳だ。

最初は飛ぶ様に売れたのだろう。
道内の出張も多く、自慢のクラウンに商品の医療機器を積んで良く出掛けていた。
基本的に個人の家庭に卸していたのだから、今考えると驚きだ。
それが、僕ら子供達の成長と共に時代の流れから商売の雲行きが怪しくなってくる。

次回に続く。


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