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【雑談】「浦和を背負う責任」を再考する

今回は約2年前に書いた文章と同じテーマを改めて考えてみることにします。その文章がこちらになります。今回の文章は当時思ったことに対しての反論というつもりで書いているものではないので、その時に書いたことの繰り返しは出てくると思います。


浦和レッズに関わる人たちにとって「浦和を背負う責任」というキーフレーズがあります。これは2019年末に浦和レッズのフットボール本部が設立された時に土田尚史さん(当時SD)から発信されたものです。

その字面にある重さがかえってミーム化させてしまったきらいはあると思いますが、2024年の体制発表会見の時に浦和レッズのMDP制作をされている清尾さんから「浦和を背負う責任という言葉を強化担当者、西野さんから聞かれたと思うんですけど、そのイメージはどういうふうに感じていらっしゃるか」という質問が出たこともあって、責任原理主義者の僕としては今一度この言葉がどういうものであるのかを考え直してみたくなりました。


「責任」という言葉は英語での「Responsibility」に対応するとされています。「Response」(応答する、反応する)と「Ability」(能力)が合わさった単語であり、状況や出来事、事物に対して応答する、呼びかけに応える能力がある状態を指します。そして、この応答については2つパターンが考えられます。1つ目は自発的に応えること、もう1つは他者から応えさせられることです。

前者については、そこに対して応えたいという「おもい」が自身の中にあるはずです。そして、その「おもい」の正体は応える対象への愛着ではないかと思います。この愛着というのは一朝一夕に作られるものではなく、時間をかけてその対象からの影響を受けて自身が生成変化していった結果作られていくものです。その対象との関係性が必要だとも言えます。

「俺はこれを愛するんだ!」と心に決めた日から愛着が生まれることは無くて、時間をかけて寄り添っていった結果として「俺にとってこれは大切なものなんだな」という状態になる、能動的ではなく中動的なあり方と言えます(中動的(中動態)については前回の文章で簡単に触れていますので今回は説明を省きます)。こうした自分の内側から出てくる応答性を伴う場合、そこにあるのは「前向きな義務感」になるでしょう。自分からこれをなんとかしたいという感覚です。

一方後者については、そこに対して応えたいという「おもい」は不要で、対象の事物との契約関係や権力関係があれば成立します。この関係を結ぶには時間も関係性も必要ありません。そこにあるのは「~しなければならない」という規則、規約、権力構造です。こうした自分の外側から応答性を押し付けられる場合、そこにあるのは「後ろ向きな義務感」と言えます。

他者から縛られた責任感は、その他者からの監視が緩んだり、存在が見えなくなった時には途端に消え失せる可能性があります。他律的な言動というものはその程度だろうと思います。やりたくないことはやらないで済むように思いたくなるものです。


「責任」という言葉を見た時に重みや怖さを感じる時には後者の割合が強い時なのだろうと思います。例えば、「自己責任」という言葉は「お前が決めたんだからお前が何とかしろよ」という他者からの応答性の押し付けが前面に出ている怖さから僕にとってはとても後ろ向きな言葉に感じます。

そして、新加入選手に対しての「浦和を背負う責任についてどう思うか」という質問も、まだ浦和との関係性が作れていない、そのための時間を持てていない人はまだピンとこないだろうということから、この場では「おもい」を伴った前向きな言葉はなかなか出てくるものではないだろうと思いました。


ただ、今年の新加入選手もいつかはクラブを去る時が来る訳で、その時に同じ質問をした時にどういう回答をするのかは気になります。それは、選手が浦和というクラブそのもの、街、チームメイトや監督、コーチ、スタッフ、そして、サポーターたちとどのような関係性を作っていくかで変わっていくからです。

LineNewsで配信された宇賀神のインタビュー記事では彼が浦和とどういう関係性を作ってきたのか、その関係性を起点にした「おもい」がいかに彼の中に「浦和を背負う責任」を前向きな状態で立ち上がらせているのかが窺えます。

「やっぱり僕は浦和レッズの虜だし、浦和レッズの中毒。埼玉スタジアムのファン・サポーターが作り出してくれる雰囲気に代えられるものは何もなかった。」

(中略)

外から浦和レッズを見て、自分自身にとって、浦和という街にとって、浦和レッズの大きさを噛み締めている。

「やっぱり浦和レッズってすごいんだなって思ったんです。外に出てより感じる。浦和を背負う責任という言葉の重みも。ACL(AFCチャンピオンズリーグ)決勝での応援の熱、チームがクラブワールドカップに向けて大原サッカー場を出発するときのファン・サポーターの熱量。

 映像でしたけど、それを見たとき、タイトルを獲ることがもちろん恩返しなんだけど、日々のトレーニングから日常生活に至るまですべてにおいて、応援してくれる、サポートしてくれる人たちの気持ちを背負って生活していかなければいけないって思った。それがこのクラブの選手である責任だと僕は今、思っている。

 外から見るまでの自分は、ファン・サポーターの思いを背負ってピッチでプレーして、タイトルを獲って一緒に喜びを分かち合えればいいと思っていた。でも、責任はそれだけじゃない。グラウンドをあとにした日々の生活においても、僕らはその責任を全うしなければならないという視点を持つことができました」


また、クラブが定めたコンセプトに則った強化をしていくことを前提に、新監督のヘグモさんもまたそうした路線の上にいる方である印象を体制発表の会見から感じます。さらに、その場では選手、スタッフという組織全体の関係性ということにも言及しています。「良い関係性が出来るとそれぞれが責任を持って行動をとることも出来る」という発言は正に先述した「前向きな義務感」を促すものだろうと思います。


選手の責任を育む要素として「プレーモデル」(選手への要求の公平性)と「編成」(選手への評価の公平性)を前回の文章の中で書きました。それはフットボール本部体制の5シーズン目に入っていく今時点においても継続されていると思います。

クラブはきちんと「浦和を背負う責任」を育める環境を作っている、作れる人を連れてきていると思います。クラブが作ろうとしている関係性をより良くしていくためのコミュニケーションをサポーター側もとっていけると良いですね。


自分にとって大切だから、それを汚さない、それを守る、それをより良くする、そういう言動をしようという「おもい」が立ち上がってくる。それが「責任」だという整理をしてきました。

どんな言動であっても、中動的な意味での責任感によるものであればそれは一旦受容しても良いと思います。ただ、自信をもって責任感を持った言動だったと言えないのであればその一歩手前で踏み止まる、もし止まれなかった時には反省し、繰り返さないことが大切です。

ただ、これは誰かに強制するものではないということ、強制された責任感は簡単に消え失せるということも整理してきた通りです。

愛着を持てるような関係性を作る、そうした関係性を育める環境を作ることで、中動的な責任を持てるような雰囲気にして行けたら良いなと思います。だから、僕は「みんな!こうするべきだよ!」ということを言うつもりはありません。僕なりに出来ることをやって、それが自然と誰かの前向きな気持ちを後押しできるものになれば良いなと思う程度にとどめておきたいと思います。

僕なりに出来ることはクラブやチームがどう頑張っているのかを出来るだけ理解して寄り添うこと、そのために言葉やプレーを読み解けるようになることだと思っているので、今シーズンも出来るだけ雑感という形で感じたことを整理していきたいと思います。


今回はこの辺で。お付き合いいただきありがとうございました。

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