乾杯は「あけましておめでとう」に似ている

以前、ランニングサークルに入っていたことがあった。週一回、予定の合う人で一緒に走るのだが、有酸素運動を目的としていたことと、コースが一般道だったこともあって、そこまでスピードは出さずに、他愛もない話をしながら走っていた。

走りながらの話なのだから、そこまで頭も使わず、気も遣わず、思ったことをそのまま口に出している感じで、だからこそ、それぞれの人柄の地が出ていたと思う。

わたしは、心の狭い人間で、そんな他愛もない話から「この人苦手だなあ」と思ってしまうこともあり、そう思ってしまった人とは離れて走ったり、その人との会話の輪に入らなかったり、そうこうしているうちに、なんとなく勝手に自分ひとりでエスカレートしていって、目を合わせないようにまでなってしまっていた。

だが、ある年の正月あけ、最初のランニングの時に、みんなで「あけましておめでとうございます」「今年もよろしくお願いします」と向かい合って頭をさげ合った瞬間、不意に、これまですごく苦手だった、その避けていた相手がなんだか思っていたよりいい人だ、と思えたのだった。その「あけましておめでとう」の挨拶という儀式の瞬間に、スイッチが切り替わったような、不思議な体験だった。

乾杯にも同じ効果があるように思う。

「乾杯」と声を合わせ、グラスを合わせる瞬間は、それが苦手な上司でも、苦々しく思っている若者でも、自然と目を合わせて笑顔を向けている。乾杯の一瞬は、日常の本当によくある一コマでありながら、非日常な瞬間でもあるかもしれない。

今は、宴会はおろか、対面での飲食についても数人以上は控えることが望ましいとされてはいるが、もともと、「飲みニケーション」という言葉もあるとおり、宴会や飲み会は、重要なコミュニケーションの場であった。それは、同じ場を共有したり、共に飲食をすることだけではなく、「乾杯」という行為の影響も大きいと思う。何故なら、全員がそろったら、必ずそこで「乾杯」をするものだから。しかも、誰かが遅れてくるごとに、「乾杯の練習」とグラスを合わせる。なにかの都合で乾杯しそこなうと、妙に落ち着かない。なんだか、その場への参加が認められていないような気分にすらなってしまう。

逆に、異動したばかりの部門での年末納会などで、誰が自分の部の人かもわからないし、話す相手もいない時でも、とりあえず、どこかの輪で乾杯に参加しさえすれば、そこでグラスを合わせた人となんとなく話を始めることができる。

「乾杯!」と言って飲むビールはいつでもおいしい。

キンキンに冷えたやつをぐいっといって、「あー、この一杯のために生きているー」というのは勿論だけれど、乾杯前に、そこそこ長い挨拶とかあって、ビールの泡が消えてしまっても、そこはかとなく温まっていたとしても、やはり、乾杯の一杯は格別だ。

仕事モードから切り替わって、宴会に溶け込んでゆく、その解放感・安心感を味わいつつ、「乾杯」や「乾杯の練習」の一杯を飲み干す。間違いなく、人生のご褒美の瞬間の一つだろう。

ああ、思い出す。飲みにいきたい。乾杯したい。

今は、個人的には、家族以外とは直接グラスを合わせない日が続いているが、人の空気を感じながら一緒にお酒を飲めた、あの日々は楽しかった。思い出すと、なんだろう、何から何までへの感謝の気持ちがわいてくる。オンライン飲み会などもしてみると、当たり前のように受け止めていたお店の一つ一つのサービスに心配りがあって、お料理をワイワイとりわけたりしたり、その場の人たちみんなのおかげで心地よく楽しめていたことに改めて気づく。ありがとうございました。

もう、半年近く、ひたすら「気を緩めず」「今がふんばりどころ」と言われ続け、ふんばりすぎてもう筋肉がプルプルしてるんですが、というのが正直なところだけれど、まずは、いろいろな意味で生き残ろう。そして、もう一度、「乾杯」といってグラスをあわせよう。

次、またリアルでグラスを合わせられる日、それは、ある意味、新しい年を迎えるのに等しいだろう。新たな気持ちで、ちょっとおしゃれして出かけて、大事な場所で乾杯しよう。

それまで、みんな元気で!


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