SNS。

恥ずかしながら私、ツイッター、フェイスブックの類はやっていないです。唯一、取り組んでいるのがこの「note」になります。

でも、これらSNSの必要性はずいぶん前から感じていました。決定的な出来事は「東日本大震災」です。電気が停まり、情報源はラジオとスマホ。SNSのつながりがあったらなぁ~って感じました。

個人が発信元になっている現代では、受信側も個人になります。やっぱりSNSは重要です。

では、私が利用しない理由を考えてみます。

①なんとなく
②恥ずかしい
③パリピっぽい
④内容がない
⑤知り合いに見つかるor知り合いを見つける

①はその通りです。情報として必要だと認識しつつ、これまで行ってきませんでした。「本当にSNSは必要だ」と強く思うことでこれは克服できます。では、強く思うにはどうしたら良いでしょう。何か新しいことを始める時に、新しいモノを買う時に参考にするのはブログだったり、Amazonのレビューだったり。それと同等だと認識することで解決です。

②はその通りです。ではこの「恥ずかしい」の対処法を考えます。SNSの利用者が少数派であった場合には、そっち側に取り込まれるのが「恥ずかしい」と感じるのなら、もう大丈夫。すでに大多数が使っていますから。では、この「恥ずかしい」の根源はなんでしょう。単純です。自分が勝手に思い込んでいるだけです。

③は特にインスタのことです。
なんでか知らないですが、私には「Instagram=パリピ」のイメージがあります。「Instagram以外を使えばよい」で解決です。

④は深刻です。
私の普段の生活には内容がありません。それを踏まえれると、わざわざ発信する内容は皆無のように思えてならないのです。では対処法を考えます。「内容がない」とは誰にとっての内容のことを指しているのでしょうか?そうです。これは「見られる」を前提とした思考です。そもそもこの思考が間違いです。誰かに見られることを意識するのではなく、「自分の記録」としてSNSを始めればよいのです。解決です。

⑤は、④を前提に投稿した場合、ひどいことになります。散々たる日常の内容が知り合いに見つかった際には、ひどいことになります。対処法を考えます。ちょっとは「見られるかも」を意識しSNSを行うしかありません。するとどうでしょう。③と矛盾してしまいます。逆にSNSの中で知り合いを発見してしまった場合はどうでしょう。平凡な日常を過ごす私と違い、きらびやかな世界で生きている知り合いのSNSを発見してしまったら・・・発狂です。生活の中の、ごく一部のきらびやかな部分を切り取って発信していると理解するようにしたとしても、発狂するでしょう。じゃあ、自分の日常をきらびやかにするしかありません。ってか「きらびやかな生活」って何でしょう。もしかして目の当たりにする日常と、スマホの画面を通じての日常の差だけなのかもしれません。

以上がざっと思いついたSNSに対する私の思考です。
発信する内容に意味がないと自分が思ったとしても、他の誰かには意味のあることだったり。自分では当たり前だと思っていることが、他の誰かには目からうろこ的だったりします。

そもそもSNSに対し「何気に」見るか、「情報源」として見るかによって受け取り方は変わってきます。私はブログなどを情報源として見てしまっているので、SNSもそうでなくてはいけないとの先入観が強いように感じます。

「自分の行動記録」としてSNSを始めることに決めました。
とりあえず決めることだけは決めました。あとはスタートをいつにするかです。

明日、きらびやかな休日になったとしたら明日から。明日、散々たる休日になったとしたら再度、検討です。



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