私の哲学ノート、現代哲学論

人類史で哲学が生まれるのは、宇宙・地球・自然・人間・社会を結ぶ原理である真理を掴むためだったはずです。
具体的には、そもそもそれら世界は、その言葉が示すモノは有るのか?無いのか?実在するのか?
とはいえそれがわからなくても、眼の前にあるモノは確かにあるのだから、それらを生み出しているおおもとのモノは何か?というので

土だ、水だ、火だ、風だ、砂粒のような原子だ、物事の背後に確かに有るのだが見えない数がそれだ、などと議論が起きて現在まで議論が発展しつつ続いているのです。
そもそも人間が世界を認識できるのは、目の前に物があるから、それと分かるのだという唯物論と、そうではなく人間の観念がある事で目の前に物があると分かるのだ、という観念論の議論となり、それぞれの認識論もうまれ、その議論も続いてきました。

その一方では真理を求める思考活動の中で、比較的矛盾が少なくて、実際的な理論が、やがて宗教となる宗教的真理なのでしょう。

もう片方の真理を求める哲学の方は、学門としてあり今でもああだコウダと議論してるのでしょう。

認識論の命題から、科学的認識問題として科学論や科学哲学の議論となり、自然や人間の美を認識する芸術論の議論なども生まれてきました。

それらの議論から多様な命題が生まれたし、あまりにも長い歴史なので、哲学の議論が何のための議論だったかを、哲学じたいが忘れた状態になってしまったのでしょう。  

現代にいたっては、真理を探求心するために哲学することと、大学教授などが過去と現在の「哲学者」なる者たちの理論を研究するのが「哲学」だと混同するようになり、そのような混同した哲学者ばかりとなってしまい、真理を求める哲学者は居なくなったか、それとも社会の表には出てこない、つまり露見しないようになってしまったのでしょう。

こうして今や本来の哲学なき日本となってしまったのです。
ここのノートの哲学を語る多くのブログ著述でも、それらの混乱と混同が各執筆者のなかで入り組み、「哲学的議論」をしているかのように錯覚しているようです。

しかしその錯覺を錯覺だと知るためには、その方各自が哲学的真理を獲得しないと判明せず分からない関係にあります。

人類の歴史転換点にありながら、人間の知性の頽廃は他の要因も重なり大変重大なの状況にあります。
ルネッサンス期に経験したような復興要因は何処にあるのでしょう。

中国とロシアにそれはあるのでしょうか?

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