個人意識の現れ方と、実際や実態の事実。
私は自分で紹介しながら、この人を知りませんし、全く関心もありません。
この人個人を称賛したり批判したり、難癖や揶揄人格攻撃をするものではありません。
ただ単に、人と社会と思考活動の現象として、さらにその実例として、紹介させてもらっています。
純粋に、人間社会の恣意活動や意識的活動の拡張現象を、述べたいと思っているだけです。
さて本題に入りますと。
立論しますと、かすべての人々と人類の全ては、幸せをもとめている。
不幸せを、すべての人が求めてはいない。
個人がその不幸を求めた場合は、そう思い信念を持った時にすぐ自殺してしまうだろうから、結果的にそのような「不幸の希求者」はいなくなるわけです。
そのような人間の本質思考(意識)を歪めるのが、その普遍的な目標を見ずに、あるいは忘れて、目先の目標や、その上に根拠のない理屈をつける、様々な個人(主観)思想が生まれるからです。
そのような負の逆転(転倒・倒錯・悩み)思想が生まれるのは、根本的には次のようにあるでしょう。
人は食べなければ死ぬという要因があるから、古代では獲物をとったりする時に、あるいは稲作が始まる時代には農作物生産のために働いたりする時に、さらに近代の労働集団には、その人間集団に司令塔が必要になるからです。
こうして人間集団や組織を指導(支配)者と多勢協力集団(被支配)に別れさせなければならず、それを大きくした集団が、歴史が進むごとに組織や部族や社会となっていきます。
農耕時代になって余剰の生産物ができるようになると、余剰物を管理独占しようとする支配と被支配の集団や組織になって行き、やがて徐々に歴史が進むに連れて、その支配関係を大きくした組織や部族や社会や国家となっていきます。
こうして国の支配層が被支配大衆を従わせるために、宗教的神秘なる力を信じさせたり、推論的な嘘やその思考を混亂させる思想を普及させて、さらにもっと歴史が進むと、より多勢になっていく集団や国民を愚民化させるようになっていくのです。
やがて、それらの思想を普及させる人々は、人類の普遍の希求を見ずに、あるいは忘れた倒錯思考者が『良かれ』と思って、さらにそうした様々な個人が自分の主観思想を広めるようになるのです。
この場合の思想とは、社会や自然の様々な現象に対して、単発的な考えや思考とは別に、一定の理論的な整合性を持ったものや、もっと複雑な諸現象に対して体系化した思考を指して思想といっています。
個々によって、その思想の重軽広狭や深浅遠近などは異なります。
しかし学問的批判や真偽の判定を経た、学術的体系思想の哲学とは全く別なものとなります。
補足。
法学や経済学や経営学だとかをしてる方がいるようですから、補足します。
人が集まった状態で、基本的な姿と名前に、「群れ」があります。
これは自然発生的にヒトなどが集まる状態ですが、そんな状態でも、時系列的には必ずリーダー的なモノがいます。
先頭をきるモノですし、他のモノもそれに追従します。
例えば、道を歩いている人々中で、「あれは何だ」と見上げる人がいると、近くにいた人たちもそれを見上げる場合などです。
こうして無目的集団の「群れ」ができます。
出来ますが、暫くすると形を変えて解消するのも群れの特徴となります。
子供とかの遊び集団も自然発生的な群れ状態ですが、遊ぶという暗黙の潜在目的を持って人が集まるので、群れでも一段階集団形式が上になり、目的意識的な集団的「集団」とも言える状態になります。これも常に人が入れ代わったり解消したり、遊び内容が変わったりしながら群れ状態を維持します。
暴徒なども自然発生的に生まれる場合もありますが、やはり暗黙の潜在欲求があって、何らかの刺激で暴徒化するのでしょうし、そのうちの誰かが目先の目標を怒鳴ると、徒党状態に変化するのでしょう。
こういった人の集まりを種別する判断基準は、心理学や家庭家族(家政学)や、法学歴史学などによっても若干の違いもありますが、上のような特徴は共通するでしょう。
経営学の意思決定論でも、リーダーと他の多数の関係を見る上でも不可欠な視点となります。
哲学的には、星、植物、動物などにも当てはまる群れの特徴と言えるのではないでしょうか?
物理学は次元(階梯)の違いが有りますので、妥当しませんが、上昇解明に向うほど群れの特徴が発現するのではないでしょうか?
参照 私のこの記事と一緒に読んで頂くと、あなたの頭の中がキレイに整理されるはずです。https://note.com/y1117259k/n/n10f6371eeb2e
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