いくらなんでも

プラシーボ効果だろ、とおもう。
以前服用していた時には長いこと効いてなかったおくすり1錠で、いきなりなにか変わるとはとても思えない。

でも、いろいろな言葉や普段箱に仕舞っている記憶がのうみそを走り回るのが「頭がすっきりする効果」のおかげだとしたら、モヤがかかっていてくれた方がまだマシだ

生きづらすぎる

私の眠気は、私のDNAを必死に護っているのかもしれないとおもうとなんとも言えないきもちになる。不器用で愛おしいかもしれない、けど、そんなバグった個体なら殺してしまえよ、エラーだろ。というきもちにもなる。

「私」を遺すのはこわい

泡みたいに消えたいし、今世にミリほども私の欠片を遺していきたくない。「現実的に」考えればそんなことは限りなく不可能に近いんだろうけど、私が生きてる世界は私の中にしか存在し得ない、とか、哲学的思考を振りかざせば可能性はある。現象学の授業で「現実が存在するなんて証明できませんよね、前提に出来ないですよね、」と言ったら「でもそういうことを普段考えて生きないでしょ」といわれた。考えて生きてるよ。原型か妄想か「現実」か知らんが、ある時期から想起する光景がある。私は病院のような真っ白な部屋でベッドに横たわってて、女性二人が私を見守っているという光景。「ほんとう」はこれで、私が今生きている世界はぜんぶ想像なんじゃないかっていう考えが、ある時期からぬぐえなくなった。世界の連続性なんか知るかよ、夢も現実も想像も行き来して生きてるしどれもが私の世界を構築してるよ

おかしいのかな

なんか急に文章書きたくなったのでしばらくぶりにnote開きました。自分の世界と好きな人の世界は違うし、互いの世界を見ることは出来ないし、一般に共有部だと信じている部分も共有しているという証明ができないなんて、こんなに苦しいことがありますか。私のうれしいとあなたのうれしいが反対の感覚かもしれないと考えてしまうと、この世界の全てを諦めたくなります。

なにも考えずに寝ているのが吉でしょう


自動筆記あるいはごみばこ

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