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「一律給付金10万円を受け取ること」は、立派な社会貢献です。

新型コロナウイルスの社会的な影響が凄まじい。
今この瞬間はもちろん、今後の生活に不安を感じている人は多いのではないだろうか。
しかも、本来こうした“不安”を緩和するためにあらゆる施策を講ずるべきはずの政府は、その後手後手な対応によって市民の不安を一層掻き立てている印象すらある。

そんななか、ようやく、本当にようやくではあるが、総務省は4月20日「現金10万円の一律給付」の概要を発表した。

正直、遅すぎる。
以前、Twitterでも呟いたけれど、貧困対策は早ければ早いほど、効果は高く、効率も良い。


1か月前であれば10万円でもなんとか生活再建の見通しを立てられたであろう人が、現在では全く足りなくなってしまうということは往々にしてありうる。まあ、それでも、今からでもやらないより絶対やったほうがいい。
現政権に対して言いたいことはいくらでもあるが、評価するべきことは評価しておこう。

ところが、一律給付金の話がすすんでいくなかで、今度は「私は受け取りません」と公言する議員や団体が出てきた。
申請するもしないも、個人の権利なのでそれ自体はまあ好きにすればいいと思う。
ただ、影響力のある立場にある人間や団体が、受け取らないということを「公言」するのはとても迷惑だと思っている。

なぜなら、こうした「公言」は生活に困っている人はもちろん、“「コロナ禍によって所得が下がったわけでもない人」が給付金を受け取ることを後ろめたく感じてしまう空気”をつくりかねないからだ。
「生活に困ってない人が受け取るのを躊躇うこと」は良いことだ、と思う人もいるかもしれない。
しかし、これはとても困る。
なぜなら、私は、給付金を受け取ることは、むしろそれ自体、とても素晴らしい社会貢献だと考えているからだ。
給付金を受け取らないのは個人の勝手だが、それを公言することで、これから日本中でまき起こるであろう「給付金を受け取るという社会貢献」を邪魔しないでいただきたいのだ。

それでは、何故、「所得が下がったわけではない人が給付金を受け取ること」が社会貢献だと言えるのか。
その意味を、現在貧困支援に身を置く立場として論じてみたい。

日本の“本当に困っている人探し”の歴史

「一律の現金給付」にかじを切るまでに政府がこれだけの時間と思想的な葛藤を必要としたこと自体は、日本の貧困対策、社会保障制度のこれまでの思想的潮流・特徴を念頭におけば実は驚くべきことではない。

日本の貧困対策の歴史的な特徴とは、ずばり、「選別主義」である。

1874年に制定された恤救規則、第一次世界大戦後の救護法、第二次世界大戦後の(旧)生活保護法、そして1950年に改正され現在に至る(新)生活保護法まで、一貫して支援の対象者は「本当に困っているかどうか」という「選別」にさらされてきた。
無論、現在の生活保護を、権利性すら曖昧にされたり、そもそも明記されていなかったそれ以前の法と並べるのは、制度の発展に尽力してきた先人からお叱りを受けるかもしれない。
現在の生活保護は無差別平等の理念の下、稼働年齢にあるかどうかなどに関わらず、申請時の困窮度合いによって利用できるかどうかが決まるのであり、(少なくとも)過去の制度とは比べものにならないくらい「普遍性」が担保されている。
しかし、現在の生活保護においても厳しい資産調査(ミーンズテスト)が行われるという点において、選別主義的であることに変わりはない。
そしてこの「困っている人」を社会的に選別し、そうした貧困層に対して市民から集めた税金を分配する。これが、日本の「再分配」の基本的な考え方である。

「相対的に困ってない人が多めに負担して、困っている人に回す」。
自然なことだと思うかもしれない。
こうした再分配の考え方が、とりわけリベラルによって支持されてきたことも改めて言うまでもない。

ただ、この一見“当たり前”な「選別を前提とした再分配」という戦略も、次の2つの点で留意しておきたい課題がある。

「選別」の難しさ

まず、「困っている人」のみに支援を行うということは、「困っている」状態を定義する必要が生じる。そして、その定義に基づいて「困り度合い」を測る「基準(A)」が設定されるわけだが、裏返せば、この「基準(A)」を満たさなければ、別の視点(B)からみれば明らかに困窮している人であっても支援の対象からは漏れるということになる。
すると今度は「別の視点(B)からみれば明らかに困窮している人」を支援するために別の「基準(B)」に基づく制度がつくられる。
しかし更に別の視点(C)……といった具合に、「選別主義」に基づく社会保障制度は、常に制度から漏れる困窮者を生み出しうるという課題がある。

しかも、日本はただでさえ生活保護の捕捉率が二割前後と、欧米に比べて「漏救」がひどい国であることも再三指摘されている。
貧困層に制度の情報をアウトリーチしたり、基準を満たす人を支援に繋げるということが、そもそもめちゃくちゃ下手くそな国なのだ。

市民の分断を生む、「負担者」と「受益者」という構図

次に、「困ってない人が多めに負担して、困っている人に回す」という戦略は、とりわけ中間階層の生活が苦しくなってきている現在の日本では、「私も苦しいのに何故他人の生活を支えなければならないのか」という市民対立的な感情を生じさせやすい。
改めて指摘するまでもなく、現在の日本は格差が大きく、貧困率も高い社会である。私は以前、「そうは言っても人生を通じて一度も貧困に陥ることのない人のほうが多数派であるのだから、『あなたもいつ貧困状態になるか分からないのですよ』というメッセージはリアリティを持ちえないし、戦略としてもうまくいかない」と主張したことがある。

この認識は今でも間違っていないと思う。
ただ、少し留意しておきたい点がある。

情報メディア「ワイズロ-ン」の調査によれば、対象となった日本在住の男女1060名の貯金額の中央値は100万円。しかも、調査対象者の半分以上が100万円以下と回答しており、そのうちの2割は10万円以下となっている。これは結構ショッキングな数字である。
とはいえ、やっぱり貯金が100万円あれば、「病気などで失職したら即生活が行き詰まる」というほどの緊張感はないかもしれない。また、「いざとなったら実家など頼れる資源がある」という人のほうが依然として多数派だろう。
ただ、貯金が100万円以下であるという状態は、「何かあった時の貯蓄としては心もとない」、「あまり余裕がない」という漠然とした不安感を抱くには十分である。十分な程度に、少ない。
そして、この「余裕のなさ」や「将来への漠然とした不安」をマジョリティが共有する時、「選別を前提とした再分配」は、「負担ばかり強いられる私と、再分配の恩恵を受ける者」という心理的な敵意、ルサンチマンを生じさせる。

本来、自分もしんどいなら、社会保障制度の拡充を訴える側に立ったほうがよさそうなものだが、そうはならない。
なぜなら、「余裕がない」と感じている一方で、「自分が『貧困』に至るというリアリティまではない」ために、「自分が再分配の受益者になる」とは思えないからだ。

なぜ社会保障を拡充しても「自分が受益者になる」とは思えないのか。それは、日本の再分配が厳しい「選別」を前提にしてきたからに他ならない。
「本当に困っている人のみが対象とされる」というイデオロギーが強い制度しか持たない国で、“あまり余裕がないマジョリティー”が再分配政策を支持しないのは合点がいく。
あとは悪循環である。
「再分配」が進まない→分配資源が更に限られる→“本当に困っている人”に支援を限るという「選別主義」が先鋭化する→市民間対立、ルサンチマンが増大する→「再分配」が進まない…
また、こうした悪循環によって選別主義が先鋭化することは、一つめの課題として指摘した「制度から漏れる困窮者」を質的にも量的にも増大させてしまうことも付言しておく。

「選別を前提とした分配」から、「みんなが受益者になる分配」へ

この袋小路をどう抜ければよいのだろうか。
そのヒントは、やはり既存の福祉国家に求めてみたい。

福祉国家と聞いてまずイメージするのは北欧だろうか。
「福祉国家=再分配をしっかりやっている」という漠然とした印象を持つ人は多いだろう。そして、そういった制度が支持されているということは、北欧の人々は「再分配を支持している」ことが想像できる。
ところが、意外なことに、井手ら(2016)の整理によれば、ノルウェーやスウェーデンといった北欧諸国の「低所得層への給付」(という再分配政策)への支持は、それほど高くない。
日本やアメリカ、イギリス、ロシア、台湾など25か国のなかで、再分配政策への支持のポイントはノルウェーが14位、スウェーデンは19位と、むしろ下位に位置づいている。

他方、「高齢者に対する政策」や「失業者に対する政策」といった、あるカテゴリー向けの政策に対するノルウェーやスウェーデン国民の支持は高い。

つまり、北欧諸国は、再分配への支持自体はそれほど高くないものの、人々の共通するリスクやニーズに対処する政策への支持が高いということだ。
そして、特定の階層から他の階層への再分配というかたちではなく、低所得者も含めて社会で広く負担し、介護や教育サービス、失業補償をユニバーサルなかたちで設計することで、「多くの人が受益者となる」という戦略を採用しているのである。
北欧諸国でのこうした制度設計は、貧困率や格差の是正を実現する。
しかし、ここで低所得者層への再分配が進むのは、「みんなが受益者となる政策」の結果にすぎず、必ずしもはじめからそれ自体を目的として設計されているわけではない。
こうした戦略は、日本の悪循環とは正反対に作用する可能性が高い。

社会階層に関わらず、市民が様々な福祉サービスを広く享受できる→市民間対立、ルサンチマンが生じにくい→高負担に対する社会的合意が得やすい→再分配の資源を確保しやすい→社会階層に関わらず、……。

ここで私が主張したいことは、「日本も北欧のような高福祉・高負担に今すぐ舵を切るべきだ」ということではない。
どのような方法で社会保障費を担保するかというのは、経済状況などを踏まえて十分な民主的な熟議のもとに決定していくのが望ましいし、「高福祉・高負担」というレトリックが、高所得者が納税の義務を貧困層に転嫁する方便に使われてしまうリスクにも注意が必要だと思っている。

一方で、北欧諸国の仕組みから得られる教訓があることも事実である。
その一つは、厳しい「選別主義」を前提とした再分配は、必ずしも最も“効率のよい”戦略とは限らない、ということである。
特に、現在の日本のように「余裕がない」というリアリティを多くの人が共有する社会では、「選別主義」を前提とした再分配戦略こそが、―社会的合意形成を困難にしてしまうという意味において―、“政治的な非効率さ”を生んでしまっているといえないだろうか。

現在の日本で、「みんなが受益者になる分配」のありかたについて一度真剣に検討してみる価値は、確かにあるはずだ。

「一律給付金10万円を受け取る」という、“社会貢献”

今回の「一律給付金10万円」という施策の公表に至るまで、私たち市民は政府から嫌と言うほど「選別のまなざし」を向けられた。ある時は収入が下がったことを自ら証明することを求められたし、ある業種は「適切でない」という差別的なレッテルを貼られた。
政府だけではない。市民の間でも生活保護利用者や外国にルーツを持つ方がやり玉にあげられ、「給付反対」の掛け声を中心に差別的な言葉が飛び交っている。

しかし、一律給付金がきっかけとなって市民の断絶を深めるのは、あまりに勿体ない。
なぜなら、この一律給付金こそ、日本社会が一貫して囚われてきた過度なまでの「選別主義」を乗り越えるきっかけ、わずかでも重要な一歩という意味を持ちうるはずだからだ。

「誰が本当に困っているかを厳しく判別する社会」ではなく、「誰もが受益者になる社会」のほうが、居心地がよいに決まっている。

あなたが「一律給付金を受け取る」ということは、「選別主義をわずかでも乗り越えたという前例」づくりに参加するということだ。
「互いを監視し合う社会」ではなく、「みんなが助かる社会」を、社会共通の経験として記憶するということだ。
これが社会貢献でなくて何なのか。

もう一度言いたい。
あなたの所得が減っていようとなかろうと、生活保護を利用していようとなかろうと、外国にルーツがあろうとなかろうと、胸を張って、一律給付金を申請しよう。

一律給付金の申請は、それだけで大きな意義を持つ、立派な社会貢献だ。

受け取らないという選択をするのも自由だが、それを公言することで、今まさに社会貢献しようとしている人たちの足を引っ張らないでいただきたい。

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