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生活保護の「扶養照会」を、斬る。

「日本には生活保護があるのに、なぜホームレスの人や貧困に苦しむ人が今なお存在するのだろうか」

テレビで国内の貧困に関する報道が増えた昨今、こんな疑問を抱いたことのある方も少なくないのではないだろうか。

筆者自身、国内の貧困に関心を持って研究に勤しんでいた学生の頃から、これは大きな疑問の一つであった。

生活保護の申請を阻む「扶養照会」の壁

無論、生活保護申請にあたっては様々な心理的・制度的障壁があることは多くの学者や活動家の指摘をみるまでもなく、ある程度想像はできたが、「生活保護の申請をすることは、路上生活を続ける以上につらいことなのか?」という点は以前疑問で、ストンと腹落ちしなかったのである。

筆者が大学院を修了した後に東京でホームレス支援に従事するようになったのも、こうした疑問と向き合いたかったからというのが一つあったように思う。

そして、ホームレス支援を生業とするようになってからは、生活保護の申請にあたって当事者がぶち当たる障壁を毎日のように耳にするようになった。

そのなかでとりわけ多く聞いた意見の一つが、「生活保護の申請を家族に知られたくない」というものだった。

生活保護を申請しようとすると、「20年以上音信不通で家族からの援助の見込みは全くない」「DVなどから逃げてきた」といったケースを除けば、役所から親族に対して「あなたの家族が◯◯区で生活保護の申請をされていますが、援助できませんか」という確認の封書が送られるのが一般的である。これを「扶養照会」という。

この扶養照会がなかなかやっかいで、「家族に知られるくらいなら路上生活のほうがマシ」だと言って申請を諦めてしまう人が後をたたないのだ。

「親族による扶養」は生活保護利用の条件ではない

ところで、生活保護は「世帯単位」を原則としているため、同居する家族がいる場合はその世帯収入が生活保護基準を下回っているかどうかによって要否が判定される。

逆に言えば、単身世帯の場合は申請者「個人」の所得などが要件を満たしているかどうかが生活保護を利用できるかどうかの判断基準になるということである。

よく誤解されることだが、生活保護の申請者に親族がいるからといって、常にその親族が申請者を(生活保護に優先して)扶養する義務があるわけでは決してない。

民法上、強い扶養義務を負うのは夫婦と未成熟の子どもに対する親だけであるし、夫婦であったとしても扶養義務者による扶養は保護の要件とされているわけではない。

この点については厚生労働省も2008年に「扶養が保護の要件であるかのごとく説明を行い,その結果,保護の申請を諦めさせるようなことがあれば,これも申請権の侵害にあたるおそれがあるので留意されたい。」との通知を出している。

にもかかわらず、生活保護申請の現場では、「家族に確認をとらなければ生活保護を利用することはできない」といった誤った説明が行われ、当事者が泣く泣く申請を諦めるということが横行しているのである。

「家族に助けてもらうべき」?

ここまで読んで、「なぜそこまで家族に知られることを嫌がるのだろう」「むしろ家族に助けてもらえばよいのに」と疑問に思った方も少なくないだろう。

既に扶養照会が回避されるケースとして軽く触れたように、現場では「親の過干渉に幼少期から苦しめられてきた」「自分の思い通りにならないと言葉や暴力で従わせようとしてきた」といった身心の虐待に関するものもよく耳にする。

「家族に助けてもらえばよいのに」という方の多くは、これまでの家族との関係性も良好なのだろう。社会学では社会関係資本という概念で示されるように、家族という存在は多くの人にとって「困った時に頼れる」資源としてイメージされやすい。

しかし、すべての人が家族と良好な関係を築いてこれたわけでは勿論ない。むしろ、距離感が難しく、一度こじれると修復が難しいのもまた家族である。上述したような非対称な権力関係ができあがってしまっている場合などは、「家族」は資源になるどころか生活の足枷になりかねない。

では、虐待などの恐れがない場合はどうだろう。

筆者は、家族関係がさほど悪くないという場合であっても、「生活保護ではなく家族での助け合いを優先する」ということには大きな問題があると考えている。

その理由は、生活保護が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」は、誰かに首を垂れて助けを請うことで実現されるようなものであってはならないからだ。

貧困状態を脱するということ、尊厳のある暮らしを営むということ、これらはすべての市民が当然享受できるはずの権利であって、誰かの慈善的な情けや施しによって支えられるものではない。

最低生活の保障は、すべての市民が一切の引け目を感じることがないよう、「さも当然顔」で過ごせる形で実現されなければ、わざわざ最高法規である憲法で生存権を規定した意味がないのだ。

「まず家族に頼れ」というメッセージは、こうした生存権の理念を土台から骨抜きにしかねない。相手が誰であれ、「収入が足りなくて生活に困っているので援助してほしい」と、個別具体的な他者に一切の引け目を感じることなく「さも当然顔」で頼める人がどのくらいいるだろうか。

繰り返すが、最低生活を送ることは、権利なのだ。
誰かに「お願い」することではなく、すべての市民の生存権を守るという責任を有する国家に対する「当然の要求」なのである。

わたしたちにできること

この記事が、扶養照会について考える一助になれば幸いである。

また、現在、つくろい東京ファンドの稲葉剛氏によって「困窮者を生活保護制度から遠ざける不要で有害な扶養照会をやめてください!」と題したオンライン署名キャンペーンが行なわれている。

こちらでも扶養照会の問題について端的に指摘されている。是非確認のうえ、それぞれの判断で参加してもらえればと思う。

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本記事の内容をもとに、stand.fmで話しました。こちらも是非ご聴取ください。



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