ソーシャルワーカーは専門職か?-支援の”ジレンマ”と”違和感”をめぐって

今日は、先日知人と一緒に居酒屋でやった読書会でとりあげた本とそれへの私なりの感想を記録しておこうと思います。

今回私が選び、報告を行った著書は『社会福祉学の〈科学〉性-ソーシャルワーカーは専門職か?』です。

ソーシャルワークの「専門性」?

現場でソーシャルワークなるものを実践している人であれば一度は、「社会福祉の専門性」(効果の実証可能性と言いかえてもいいかもしれない)について考えたことがあるのではないでしょうか?
というのも、様々な理由で生活に困窮している人を前に、どのような手法で対応するのが「正解」なのかを判断するというのは実に難しい。
なぜなら、当事者のおかれた状況、成育歴などは文字通り千差万別で、いくらケースの蓄積があっても「こういう状態の人にはこういうアプローチをすればうまくいく」という解決にいたるプロセスを先立って構成することなどほとんど不可能だからです。

そもそも、社会福祉が目指すのは「個人が幸せに生きるための社会的条件を保障すること」だと私は考えていますが(もちろん、まずもってこの定義の合意形成自体が容易ではないわけですが)、この「個人」の「幸せ」というものは先験的に同定するということができない。
また、仮にソーシャルワーカーの働きかけによって当事者のニーズが首尾よく満たされたとしても、これを客観的に評価するというのも容易ではありません。

医者であれば「病気を治す」という明確な目標があり、それに向けた客観的な数値化というものがある程度可能です。ここで、「病気を治すことが本人にとって幸せなことかは自明ではないではないか」と言われそうですが、医者の目的が「病気を治す」ことであり、その専門家であると定義づけることと、病気が治ることが「個人の幸せ」の向上に寄与しているかどうかというのは全く別の議論です。
語弊を恐れずに言えば、医者は治療が個人の幸せの向上に寄与しているかどうかとは無関係に、「専門家」を名乗ることが(少なくともソーシャルワーカーよりは)可能であるということです。

ところが、ソーシャルワーカーが目標にしているのは「個人の幸せの総体」という、極めて個人差の大きい、質的なものであるがゆえに、目的の達成度合いについて証明ができない。

さて、本書はこうしたソーシャルワーク(および社会福祉学)が、歴史的にどのように科学性/専門性を追求し、その過程でどのような特徴を身に着けてきたかが丁寧に検討されます。

詳細は本書にゆずりますが、議論の土台として、簡単にその内容を整理してみます。
(以下は、本書の構成ではなく私の関心に沿った整理です)

「ソーシャルワークは専門職に該当しない」と断罪したフレックスナー講演と、「科学化」への志向

1915年、アブラハム・フレックスナーは「ソーシャルワークは専門職か?」と題した講演で、彼は専門職が成立するための「六つの属性」を明示したうえで、「現段階でソーシャルワークは専門職に該当しない」と結論づけた。
これは、当時すでにソーシャルワーカーを養成する学校が設立されており、「専門的」な教育が施されつつあるという認識が共有されていた関係者にとっては大きな衝撃となり、多くの研究者や実践家がソーシャルワーカーの専門性について研究するきっかけとなった。

こうした機運によって志向された最初の「科学」化は、心理学を援用することで、クライエントに何らかの問題が生じた場合に、それを人間の内面から生じるものとして捉えていくという学問的姿勢に重心がおかれるソーシャルワーク理論として登場する。

心理学の専門用語が社会福祉領域で紹介され、ソーシャルワーカーが対象とする『クライエント』の言動や心理は、これらの概念を用いて『診断』され、『治療』、記録されていった。

(本書p.43)

…心理決定論は、現在の問題の根を過去に求めた。そこで逆説的に、子ども期が円満で充実したものになれば、世にはびこる『悪弊』や『風紀の乱れ』は収束するという法則が提示され、『予防』という活動領域が浮上したのだ」

(本書p.46) 

こうしたソーシャルワーク理論にもとづき、たとえば「問題児」を生む家庭(=「欠損家庭」)とはどのような家庭かを分析し介入するという動きが生じてくる。

しかし、このソーシャルワーク理論は、問題の本質を社会構造ではなく個人に求めすぎであるという点で、「問題を個人的なものとして捉えるのではなく、社会的、構造的な問題として捉え」る“マルクス主義的ソーシャルワーク理論”などによって批判されるようになる。(p.50)
また「社会的なるもの」と「個人的なるもの」の相互の影響のありかたをとらえようとする“システム-エコロジカル・ソーシャルワーク理論”が登場し、「エコマップ」や「ジェノグラム」といった手法が開発されたとされる。

「科学」化の終焉

ところが、1960年代から70年代にかけて、「反専門主義」が台頭し、そもそもソーシャルワークの担い手が「正常な社会生活」を賞賛し、その安定性を保つためにクライエントの行動を規制したり制御したりする姿勢そのものが批判されるようになる。

ソーシャルワーカーはクライエントを制御するものであり、社会福祉学はそうしたシステムを維持させる装置であると糾弾され、その結果、

…ケアマネジメントの手法のようなプロセスが重要視されるようになった。そしてソーシャルワーカーは、利用者の主体性を尊重し、彼/彼女の自己実現を支える『協働者』と設定された。

(p.126)

「ポストモダン」のソーシャルワーク理論

反専門主義の台頭を経た現在のソーシャルワーカーは、「専門家だけが知識や権力をもっていたこと、『非対称性』がケアの場面で存在していたことを反省」するようになる。
これは、ポストモダンという時代の要請でもある。

多元的な社会において、特権的な見地や絶対性は後退していくが、ここで第二の『参加』は重要度を増す。ポストモダンの社会において、すべての判断は相対視され、力が与えられる。それは、力をもつ人間の言葉のみが真実とされた過去とは異なる。そこで従来の『クライエント』には、福祉サービスを利用する際に『自己決定』をおこなう役割が求められるようになった。

(p.177)


こうした、社会福祉学領域における「ポストモダン」論議においては、フーコーが代表的な思想家として認識されている。フーコーは、近代社会が様々な専門家によって人々を「規律化」する暴力性をもっていることを指摘した代表的なポストモダニストとして知られるが、著作『監獄の誕生』のなかで、この「人々を『規律化』する実務に就いている専門家」としてソーシャルワーカーを名指しで批判している。これは社会福祉学の研究者にとってはショッキングなものであり、以降、フーコーの思想を基礎にした「新しい」アプローチとして、近年、利用者の「自己決定」「強さ(ストレングス)」「物語」などを重視するアプローチが登場するようになる。


なお残る、ソーシャルワーカーが持つ「権限」

ハートマンは、ポストモダンの台頭も念頭に「ワーカーは抑圧されてきた人々の声に耳を傾け、彼らのナラティブ、リアリティの解釈の仕方を尊重し、周辺的な知の活性化を促進しなければならない」とするも、同時に、「ソーシャルワークの知は捨て去るべきでない」と強調する。
というのも、利用者の「物語」にしたがっていけば、利用者あるいは利用者と接する人々がリスクにさらされるような事態が生じうるのであり、

リスクがある場合、「適切」に処遇するための力は行使される。こうしたパワーの行使の「客観」的な信頼性を高めるためにも、社会福祉実践のデータベース化は、より精緻化されることが望まれるのだ

(p.203)

こうして、専門家による「規律化」が批判され、当事者の「自己決定」が尊重されるようになった今なお、ソーシャルワーカーが介入する局面が想定され、これを正当化するためのデータ化(≒科学化)とそれに付随する権限は、依然ソーシャルワーカーの手中にあり、当事者との間にある非対称性が解消されているとは言い難い。
三島は、こうした現在のソーシャルワーカーを次のように表現している。

専門家は、一方の手に反省的学問理論、もう一方の手にデータに基づく権限をもって実践に臨んでいる。


率直な感想―ソーシャルワークの“ジレンマ”と“違和感”

さて、本書を読んだ私の率直な感想は、「ソーシャルワークを現場で実践するなかで感じる“ジレンマ”と“違和感”を首尾よく説明された」というものでした。

人を相手にし、場合によっては命にかかわる局面に向き合う以上、個人の考えのみに基づいて何らかの判断や決定を行うというのはある種の“こわさ”がある。そこで、そういった判断の根拠を「客観性」のあるデータや、専門性に求めたいという願望が生まれるのはとてもよく理解できます。一方で、冒頭でも触れたように、ソーシャルワークはその効果を実証するということ自体がとても難題であり、また「専門性」という“権限”をふりかざすことで当事者との間に非対称性が生まれてしまうという問題もあります。
個人の“職人芸”として向き合うこともこわいし、“専門職”として振る舞うことで生じるコンフリクトもある。こうしたジレンマに悩む支援者は少なくないはずです。

次に、“違和感”について。
行政による時に高圧的で一方向的な「支援」に対するアンチテーゼで満ちた民間支援の現場では、当事者の意思に反した(と評価される)アプローチは強い批判にさらされますし、現場の支援関係者には、ソーシャルワークが持ちうる暴力性について、自覚されているように思います。
一方で、現状として、各団体にはそれぞれに当事者との関わりを持つ方法や条件に一定の規範やルールが存在するし、(ケアプランの作成など)「一緒に考える」アプローチを採用しているといっても、当事者の個人情報などが記録され、これらが介入や管理に活用されることがあるというのもまた事実でしょう。
たしかに、当事者にとって何が幸せかについて「専門」家が一方的に決定し介入するというアプローチは手放されたかもしれない。
しかし、フーコーらの指摘の根幹は、そういった直接的な支配や規律化ではなく、むしろ自律を構造的に強いるような、いわば間接的な管理のありように向けられているわけですから、
現場でよく耳にする「エンパワメント」や「当事者参加」といったアプローチも、フーコーによる批判を逃れられているわけでは全くない。むしろそういった「新しい」アプローチこそ、フーコーによって一層厳しく批判されるだろうと感じます。
どれだけ支援のありよう(内容はもちろん方法や条件に至る細部まで)について当事者が主導権をもって意思決定していくようなプロセスを構想できたとしても、「意思決定」を行うということの意味を同定し、そのための条件を社会的に整えようとする施策が、新たな管理や規律化を生むということは避けられそうにありません。

ここまで考えてみると、フーコーの指摘を乗り越えられるアプローチなど存在するのか?という疑問さえ生じてきます。
もっと言うと、そもそも現在のソーシャルワークの営み自体が近代的なシステムに依拠している以上、ポストモダニズムからの批判に対し、社会福祉の領域からのみ応答するには限界があるように思いますし、現時点でフーコーを乗り越えられないアプローチのすべてを切り捨てるというのも建設的ではないでしょう。

例えば支援者の場当たり的な判断で介入のありようが規定される暴力性と、データに基づく介入といった暴力性を比較し、さしあたり後者を選ぶということに全く意味がないわけではないし、同様に、「新しい」アプローチにも評価に値する側面もあるはずです。
結局のところ、絶対に避けるべき暴力と、さしあたり採用するしかない暴力とを選別し、何が当事者の自由をより促進するのかを再帰的に評価し選択していくしかないのかもしれない。

…と、一旦、居直ってみたものの、現在貧困状態にある方が社会的・政治的にあらゆる領域からその主体性を否定され、徹底的に参加を拒まれている状況を鑑みると、フーコーにも(一定程度)応答しうる参加のありかたについて模索・構想することは急務であると感じます。また、現場のソーシャルワーカーが“ジレンマ”と“違和感”を建設的に乗り越えられる道についても探る必要があるでしょう。
そのヒントを、私はあらゆる人が社会づくりに参加できる状況、つまり(政党政治に限定されない広い意味での)政治的自由が保障された社会の実現にみているのですが、話が長くなりすぎるので、今回はここで筆をおきます。

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