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cakesの記事「ホームレスを3年間取材し続けたら、…」は何が問題だったのか

cakesの記事「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」が炎上している。筆者も目を通したが、ホームレス・貧困支援に携わってきた立場としては到底看過できないと感じた。

(※元記事の拡散に寄与したくないので引用は控えます)

それでは当該の記事は何が問題だったのか。すでに多くの人が指摘しているように、ホームレスの人たちの居住空間を「異世界」と表現したり、その生活上の工夫について、そうした生活を間接的に強いている社会の暴力性について一切触れることなく「お金がなくても生き抜く術」と“評価”するなど、ホームレスの人を好奇の眼差しから徹底的に「他者化」しているあたりに強い違和感を抱いた。

しかし、一方では「ホームレスの人への嫌悪感がないからこそ3年間にも渡って『取材』を続けることができているのではないか」という意見も目にした。これには私も同意する。

「愛の対義語は憎悪ではなく無関心である」とよく言われるように、おそらく記事を書いた人にホームレスの方に対する嫌悪感はあまりないだろうと思う。

むしろ、今の日本社会のなかで圧倒的大多数の人はホームレスの人に対して関心すら示していない。その意味では、ホームレスの人に関心を寄せ長期間に渡って一定の関係を築いた彼らは、「最も大きな壁である『無関心』という断絶を部分的には乗り越えた」とも評価しうる。

にもかかわらず、筆者は書き手の「スタンス」に対しては迷うことなく批判の立場をとる。

それは何故か?

実は筆者が記事を読んで最も強く感じた違和感は、その表現方法ではなく、「書き手の当事者性の不在」だった。

改めて言うまでもなく、当該の記事を書いた人と記事に登場するホームレスの人たちは「日本」という同じ国の市民として生活をしている。

そして、日本が民主国家である以上、日本のすべての市民は、「お互いの生活をまもること」に一定の責任を有している。

“19世紀のイギリスの知見”を持ち出すまでもなく、民主国家における貧困は、税制や所得の再分配などがうまく機能していない時に生じる、社会的なものだ。

つまり、現在貧困状態にある人を今まさにこの瞬間貧困状態に置いている「責任」は、貧困状態にないすべての市民が負っているということだ。

この、「責任の所在」こそが、「日本の市民が日本のホームレスの生活を好奇心をもって観察すること」と、「ある日本人がアマゾン奥地の民族の生態を探ること」の意味がまったく異なる所以である。

以上を踏まえていささかラディカルな言い方をすれば、当該の記事で紹介されているホームレスの人がホームレス状態を強いられている責任の一端を、当該記事を書いた人(勿論、私自身もだ)も負っている、ということだ。

私たちが今回のcakes炎上の件で本当に考えなければならないのは、当該記事の書き手の差別意識の有無や無邪気な暴力性そのものではなく、ーもちろんそれらも大きな問題なのだがー、記事の書き手は勿論、記事を批判している人も含めて、私たちはどの程度ホームレス問題における自分の責任を自覚しているか、という点にこそあるのではないだろうか。

ホームレス問題は、どこか遠い国の、自分たちとは無関係な話ではない。

私たち一人ひとりが、今まさにこの瞬間、ホームレス問題を生み出し続けている「担い手」なのである。

「あんな表現はひどい」「リスペクトが感じられない」

どれも真っ当な批判だと思う。

同時に、今回の一件によって、私たち一人ひとりはまた別の「批判」を向けられることにもなっている。

「この記事はホームレスの人を貶めている」と怒る私たちは、自らの「責任」をどの程度自覚できているのだろうか。

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