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SARU上

五十嵐大介『SARU 上』 小学館 IKKI COMIX

カバー裏の文章より、
あらすじを引用させていただきます。


いにしえより
世界各地にその姿を現し、
畏れられてきたモノ――”猿”。
そして現代、
人類はその存亡を懸けて、”猿”と対峙することになる………!

自身にかけられた黒魔術をきっかけに、
謎の若人・ナムギャルと知り合った奈々は、
彼とともに世界各地に痕跡を残す”猿”の正体を追うことに。
その過程で自らを「孫悟空」だと名乗る少女と出会い……?


引用しておいてなんですが、
物語のあらすじはひとまず置いておきましょう。


僕が五十嵐大介さんの名前を知ったのは、
数年前、
『海獣の子供』のアニメーションを映画館で見たのがきっかけでした。

現代の清潔なショッピングモールのシネコンで、
友人と遊びで見に行った映画。
ありふれた、ほんの遊びのはずだった。
しかし、その日見たものの衝撃は、
僕の中に忘れられない何かを残していったのです。

深いスケールで紡がれる、
幻想的な世界。

それは、
『SARU』にも通じています。

『海獣の子供』の中で、
主人公の少女が走っているシーンがあったのですが、
それを見て、
「なんでまっすぐ走らないんだろう」
と思ったのを覚えています。

作品を見終わるとしかし、
そうではなくて、
自分の方が、
ものごとを直線的にとらえようとしすぎていたのだと気が付きました。


   自然に直線は存在しない   アントニ・ガウディ


それは五十嵐大介さんの物語とその表現にも言えます。

特定の場所、時代、誰か。
物語はそこを中心に展開するけれど、
けっして、そこだけにとどまらない。

古今東西、
過去の誰かの物語、
誰のものかも分からない神話・伝承。

今、目の前で起こる出来事の背後に、
もっと大きな世界が広がっていて、
現在とつながっているのです。

それが、五十嵐さんの描く世界。
いや、世界とはそもそもそういうものだったのかもしれない。
そう思わせる力があります。



『海獣の子供』の序盤のシーン。(若干記憶違いがあるかも)

主人公が学校の体育の時間に、同級生を殴ります。
先生に呼び出されて、
なぜだ、とか、言い訳するな、とか、あやまれ、とか言われるのですが、
最後は黙ってしまいます。

ハンドボールで活躍する主人公が目に付いて、
同級生の方が先に、足をひかっけるなどの嫌がらせをしていたのです。

と、物語を見ていた人は分かるのですが、
その場に居合わせず、
誰が誰を殴った、というファクトしか見ていない先生には、
それが分からないのです。

ファクトだけでは、伝わらない。

誰かの視点だけでも、本当のことは伝わらない。

同級生からみたらこれは、
「調子に乗っている奴をちょっと懲らしめてやった」くらいの話かもしれないし、
でも主人公からしたらそんなの納得できる話ではない。

直線的に語ることができないもの。
言葉が、つねに掬い取れずにこぼしてしまうものがある。

物語の形でしか、伝えられないものがある。


だから、
物語のあらすじなんて、本当は書けないんです。

というわけで、
ようやくあらすじの話まで戻ってきたわけですが、
『SARU』の内容について、
まだ何も語っていないのはどういうことなのでしょう……

(『下』へ続く)

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