白鳥の歌
森の奥深く、澄んだ泉のある方向から作曲家は白鳥の鳴き声を聞いた。
夜も更け、狭く散らかった家からは足音一つ聞こえない。
空いた窓の外から木枯らしの音と夜に時折、白鳥の鳴き声が聞こえるくらいだ。
作曲家には夢があった。
壮大な曲を書き自らの曲と名前を歴史に残すことを長く、夢見ていた。
だが、どれほど死力を振り絞り曲を書き続けても作曲家の作品が世に認められることは無かった。
何本もペンを折ったー、その度に心も折れる音がした。
作曲家には妻があった。
痩せ細り、かつての美貌はもうどこにもない。
作曲家は妻が老け込む度、顔を見ることが恐ろしくなった。
過ぎ去った膨大な時と開花しない自らの才能を妻を
見る度に思い知る。
部屋に散らかった譜面の様に、歴史の底に眠る屍の一つとして人々から忘れられ、生きた証を世に残せない、そんな未来が喉元に迫っているのではないかという恐怖が男を苦しめる。
男は毎晩悪夢にうなされた。
この夜もまた、同じだった。
細い三日月の月光を頼りに男は蝋燭に火を点ける。
もうこれで何本目だろうかー。
壊れたペンの代わりに購入した安い万年筆。
男は朧気な視界で悪夢を振り払うように力強くー、またたどたどしく筆を振るい始めた。
その時、蝋燭の日が突然消えた。
風は一つも起こっていない。
窓からは先程と同じ三日月が同じように顔を覗かせている。
窓から入り込む月光が美しい。
男は蝋燭の火が消えた恐怖心をすっかり忘れ月明かりに心を奪われた。
街頭に群がる虫のように、男はー、光に手繰り寄せられた。
白鳥の鳴き声が聞こえる。
まただー、また泉の方から。
玄関を開け、月を見上げる。
より一層輝きを増した月がそこにはあった。
「ど こ え い く の」
振り返ると玄関のすぐそばに妻が立っている。
男は悲鳴をあげ草むらに尻もちを着いた。
なんで、足音一つ聞こえなかったんだ。
「何処へもいかないさ」
男はそう妻に告げると朧気な足で白鳥のいる泉に向かう。
森の奥深くにある泉の周りは静まり返っていた。
白鳥の鳴き声は度声も聞こえない。水が小さくぶつかり合う音だけが辺り一面に聞こえる。
深い泉が地獄の入口のように拡がっている。
男は泉に入水した。
足元が冷たい。静謐な空間の中でただ月の光が一筋の確かな輝きを保っている。
白鳥の鳴き声が聞こえた。
振り返ると妻が泉のすぐそばに立ち、感情のない視線をじっと男に向けている。
辺り一面見渡しても白鳥の姿はなかった。
その時男の首筋に鋭い痛みが走る。
男は泉に転げ落ちた。見上げると、妻が先程と同じ目線のまま男の万年筆を握りしめている。
ペン先からは黒いインクがぽたぽた落ちるように真っ赤な血が滴っていた。
痛みと冷たさが男を襲う。
妻はそれ以上刺してくることも逃げることもせず、男が悶え苦しむ様子をただ見下ろしていた。
男は首筋を押え家に戻る。後ろは振り返らなかった。
夜の写鏡のように男のは冷静だった。
血が流れる度ペンで刺された時の痛みを思い出す。
痛みを感じる度、白鳥の鳴き声が聞こえた。
家に戻ると、血まみれの手で新しいペンを握り譜面に向かった。
譜面には血とインクが飛び散った。
首が痛む度に聞こえる白鳥の声が男は忘れられなかった。
夜が明け、男は譜面を書ききった。それまで男は一切血をとめなかった。
痛む度、悪夢の苦痛が和らぐ。より暗澹な未来を忘れさせてくれる。
男は痛みを求めた。日が昇る頃には作曲家になるという夢も忘れていた。
妻は狂っていく男をただ黙って見下ろしていた。
部屋中に飛び散ったちは、いつまでも乾かなそうだった。
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