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核家族、ベッドタウン育ち。 憧れは、下町情緒。

平成元年、1989年。昭和とバブルと冷戦の終わりとともに、この世に生を受けた私は、生粋の1世代だけで暮らす核家族、下町とは無縁のベッドタウン育ちだ。

グローバリゼーションの波に呑まれ、ハッピーセットのおもちゃが更新されるたびにマクドナルドをせがむ幼少期。同じ頃の1992年、ポーランドには冷戦終結を象徴するかのようにマクドナルド1号店がオープンした。

育った町の駅前にある人気のない一本道。浜寺公園という、大阪府営の大きな公園の正面入り口に続く道。かつては賑わっていたのだろう。私が物心ついた時にはもうシャッターが下ろされた店が連なり、営業しているのかも誰かが所有しているのかすらも窺い知れない、寂れた商店街になっていた。

公園の向こうに広がるのは、工業地帯。石油化学コンビナートからは絶え間なく轟々と煙が舞いあがっている。

商人の町である大阪でも、ベッドタウンと化した堺市の南端に商店はなかった。国道沿いのローソンが最寄りの店である。個人が商っていた酒屋はコンビニになり、レンタルビデオ屋はつぶれた。自転車を30分走らせた国道沿いにはTSUTAYAができた。

私が18歳まで暮らした町は、そんな下町の賑わいとは無縁であり、真逆の場所であった。


おとうふ屋さんのつくる絹ごし豆腐

小学生だったある日のこと、母親に絹ごし豆腐のおつかいを頼まれた。何を思ったのか、いつも連れられていたジャスコではなく、家族の誰も行ったことがない少し先のおとうふ屋さんに私は向かった。パックではなく、水が張られた大きなシンクに浸かっている豆腐をひとつ買った。おばちゃんは小銭を受け取ると、軒先に下げられた小さな籠にそれをしまった。

おとうふ屋さんで買った絹ごし豆腐は、いつも食べていたスーパーのよりも少し硬く、瑞々しくて、とっても美味しい。

なぜかその出来事だけを幼少期の記憶として鮮明に覚えている。きっと初めて体験した「下町らしさ」だったからなのかもしれない。おばちゃんから直接買った、手作りのお豆腐。今までとは違う温かさを感じたのだろう。

幼心に「いつもこのお豆腐を食べたいな」と思ったが、車を乗り付けられない小さなおとうふ屋さんに母が寄ることはないままに月日は過ぎた。


ベッドタウン育ちにキラキラとまぶしく映る、下町情緒


きっと、ずっと憧れていたのだ。下町情緒というものに。

テレビの中ではいつも賑やかな下町情緒が描かれている。馴染みの定食屋に、馴染みの威勢のいいおばちゃん。お隣に住んでるおねえさん。通りすがりに挨拶してくれる配達途中の酒屋さん。顔見知りのおばちゃんに、「あんた、大きくなったねえ!」と肩を叩いてほしかったのだ。

でも、私が育ったベッドタウンには静かな住宅しかなかった。住宅がひしめき合っているにも関わらず、ポストに回覧板を突っ込むだけのご近所付合い。家族はそれぞれどこかへ出かけ、私は部屋にこもって一人でインターネットと向き合う毎日。

きっと、ずっと心の隅にぽっかりとした穴が空いていたのだ。それはインターネットのもたらす繋がりが、絶えず蓋をしてくれていたから気づかなかったけれど。

そして、大人になった私は知ってしまったのだ。下町情緒あふれる町と人びとの楽しさと温かさを。

2018年。町を歩けば、馴染みのコーヒーショップのお兄さんが自転車で颯爽と駆け抜けながら挨拶をしてくれる。行きつけのパン屋さんには、何を頼むか把握されている。郵便局にはいつものおばちゃんと局長がいて、毎日持ち込むたくさんの郵便物を捌いてくれる。仕事を終えたら近所の銭湯に行く。扉を開けると、番頭の優しいおばあちゃんか、穏やかなおじさんが迎えてくれるのだ。そしてお風呂上がりに、行きつけのパブでビールを一杯ひっかける。

憧れだった下町情緒に囲まれながら思うのである。
この幸せな情緒があふれる町を一緒につくっていきたい、と。


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