柔ら工事軟派記5.22.555 「ふゆかいかいかい?」

マゾヒズムの発明

世間じゃもっぱら暗澹たる話題で持ち上がっているがつくづく家篭りに力を入れる私はとうとう自宅にいながら彼の自宅にいる友人と酒を飲み交わすことができた。我ながら急成長である。この調子であればもしかするとお互いお互いの家にいながら交際をし、電子の血管を通って子供を作る時代が来るかもしれない!ああ!こわいこわい!こわいよ〜!とはいえSNSの広告などですでにゲームでは子供をユーザー同士で交配して育成する例があるらしい。VRでも結婚とか交際があるとバーチャル世界に行ったっきり戻ってこない友達から聞いたこともある。まあしかし私の存在をこの文書でしかとり得ない稀有な読者は私のことはエクリチュールの中でしか私は生きていない。詰まることこれも仮想現実として嗜めるのだろう。知らんけど。さて書き手である私と普段着の私、ラブホのベッドで転がる私は当然違うのだろうが(アピ・ポリ・ロジー 失言)他人の認識がめっきりわからんが、あるときそれを自覚してしまう、認めてしまってはどうなんだと思う機会があった。それが話に戻って、自宅にいながら彼の自宅にいる友人との飲み会、つまるところ例のオンライン飲み会な訳なのだが。オンライン飲み会、私は流行りのzoomで行ったがこれは居酒屋などで集って飲む時と違い、少なくともそういった店内で飲み交わす際に意識しない(少なくとも私は意識していない、他の人や、これを読んでいるあなたはもしかするとジョッキ片手に常に飲んでいる友人の視線を気にしているかもしれない)、見る見られる関係が、画面でのやり取りでは如実に現れるということである。つまるところ、目の置き場に困るのである。恥じらいの文化か、それとも満員電車における視線の外しあいの闘争のそれか、それは知らぬが、やはりそう目が合う物でもないはずだが、少なくとも画面上に映る私を見て、私の話を聞いているハズである。必然的に見られていると意識せざるをえないのだ。そして相手もまた見られるということを意識しているだろう。電話ではこんなことにはならない。発話される相手の声、もしくは私の声を聞く聞からればいい。声は音声であり、その時にしか鳴らない。私たちが耳で聞き、頭で理解して消化される。だが映像であれば見ない限り、もしくはカメラを閉じない限り、画面に現れつづけるのだ。もしそのようなことをすればそれはある意味で見られる関係、もしくは見る関係を遮断することになる。それは相手に対してどうなのだろうか。
話が逸れてしまった。驚きだ。逸れてはない気もするが、私が取り上げたい認識についての今回のお話はその他人に見られること、つまりは他人にどう認識されているかである。仲の良いほうである女友達(せいぜい飲み会をする友人であれば、ある程度仲の良いと考えている、少なくとも私はそう認識していたい)に私の友人関係つまりは女性関係におけるいわゆる地雷女を自ら踏みにいくということに関し、オマエはドMだなどといわれた。私はそれをいわれ自覚的にそのことを考えてみた。これまではさほど、というかほとんどそのように考えていなかった。認識の展開という大事業は時として抵抗を生む。その摩擦が私を襲う。キリキリする。胃を荒らす。

サドマゾの二項対立が私の生活に入り込んできたのはあくまで端的な性格の分析を友人間で取り持つ安易なものだが、その源泉がいわゆるSMプレイ、ひいてはマルキ・ド・サドや、マゾッホ「毛皮を着たビーナス」などの文学作品だと思うと、やはりその言葉、意味として流通していったサドマゾの性は心理学などの科学的合理性によって類型化されてしまった人間の内情を晒す鋭くずさんなメスなのである。私はきっと状況や相手によってその立場を転換させざるを得ないことがあるのを知っている。だからこそあからさまにレッテル貼りしていくのもいかがなものだ。こんなこときっといろんな人が言っているだろうが。サドに従うマゾが実はサドを支配しているという認識の逆転をいつか聞いた際は面白いと思えたが案外そう言ったようにやりくりされているのがサドマゾだけじゃないだろう。

蛇足だが自称ドS男ほど見苦しい輩は居ないから今すぐ配偶者がいるのであれば女性に崇拝しなさい、と言いたくなるのだが、私の女性崇拝の源泉になにがあるのかと聞かれれば、おそらくなにもない虚無に無理やり当てつけて貼り付けているハリボテなあるにすぎない。

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