#4 月の裏側


夢を見た。
 

優しく微笑む彼女に、笑顔で応える自分。
なにか良いことがあったような、嬉しそうな彼女に体を寄せる。
いつのまにか自分の手にナイフを持っている。
力を込めて彼女の心臓を背中から刺し、抱きしめた。
気がつけば同じ刺し傷が自分の胸にもあり、血が流れている。
彼女を離さないようにしたいのに、腕に力が入らない。
体が冷たくなっていくのを感じながら、同時に安らぎを覚える。


目が覚めるとSは、胸を押さえて出血していないか確かめた。ナイフで刺した感触が手に残っていた。


最後に病院で会って以来、執着がさらに強くなったのを感じていた。

彼女を手放すことを、いったいどうすれば納得できるのだろう。
鎖でつないでおくわけにはいかない。
彼女が消えてしまえば楽になるだろうか。
それとも自分が。それも悪くない。   
自分が死んだら彼女は悲しむかな。
死ぬとしたらどうやって。

日々の業務の傍らで、こんな狂った考えがとりとめもなく浮かぶのを止められなかった。
ぐるぐると同じところに戻ってはまた流れていく。
そしてこんな夢を見るまでになってしまった。

その日ようやく意を決して、先延ばしにしていた彼女へのメールを送信した。

「異動が発令されました。月末に転居するので荷物を取りにきてください」

カレンダーを見ると今月は1週間も残っていなかった。

「週末に来てください。書類にサインします」

土曜日の午後遅く、Sが掃除機をかけ終わったころに彼女は部屋に来た。
ぎこちなく挨拶する。
「体の具合は平気ですか?」

「ええ、まあ」
特に会話もなく、黙々と私物をまとめる。
短い結婚生活が存在した証拠であるこの部屋の、ところどころに2人の思い出が残されていた。
カーテンや壁に飾った絵、食器やスリッパまで、2人で選んで買ったものばかりだった。
彼女は時に手を休めて、じっと物思いにふけったり鼻を啜ったり、感傷的になっているようだった。
段ボール箱が順調に積み上がり、外が暗くなってきたころ、Sが彼女をキッチンに呼んだ。

「どうですか、飲みながら」

テーブルにワインのボトルが並んでいた。彼女が好きで集めていた赤ワイン。
高価なものや珍しいもののコレクションで、記念日などの折にふれて2人で飲んでいた。
しまいこんでいたものが6本あった。
「どれにしますか」

「いま?飲むんですか?」

「乾杯しましょう」
思いもよらない提案をするSを、怪しむ目で見る彼女。
はねのけたい気持ちと、相手の機嫌を損ねたくない気持ちで葛藤しているのがわかった。 

「サインはしますよ。
これらをどうにかしたら」
Sは整然と並んだワインボトルを指さす。

「持って帰ろうかな」

「では僕が選びます。この家のものは半分僕のなので」

彼女は片方の眉を釣り上げて、それなら、と一本を選んだ。
グラスにつぎ、乾杯した。
それを買った時のことをSは全部覚えていた。ここにあるどのワインもそうだった。
ダイニングテーブルの端には離婚届が広げてあった。


お互い、ワインをすすりながら引っ越し作業を進めた。重い段ボール箱を運んだりするとアルコールが早くまわるようで、彼女はだんだん陽気になってきた。  
知らず知らずに鼻歌をくちずさんだりしている。
Sはそんな様子を見て少し安心する。

荷物の仕分けがある程度終わると、彼女は戸棚で眠っていた缶詰やクラッカーを並べ出し、ソファで本格的に飲み出した。
Sよりはるかに酒に強いうえに、ワインの値段についてもしっかり覚えており、飲まないと損をするといった様子だった。2本目の栓を抜きながら言った。
「相変わらずお酒は弱いままですか?…これは確か、えーと、◯◯年の、評価ランク1位のワインですよ。もっと飲んで」

手招きしてSのグラスに注ぎ足してくる。
ワインの味についてひととおり感想をを言い終わるのをSは黙って聞くと、間があいた。

妻が口元に笑みを浮かべたままSに言った。

「気が変わったんですね」
それ、とテーブルの上の紙切れを指さす。
「どういう理由か、聞いてもいいですか」

「だめです。
それに本当にサインするかまだわからないでしょう」

「だってさっきは…」

「しますよ」
争うのはもうたくさんだった。

だんだん酔ってきた彼女が、乾杯、といってグラスを挙げる。
上機嫌な様子だ。

「秘密にしようかと思ったんですけど。
今朝、昔に戻った夢をみました。初めて会った頃の」 

「いい夢でした」ぽつりと付け加える。

彼女の表情や声に未練が混じっていないか、懸命に探している自分がいた。この期に及んでまだ望みを捨てられないのが滑稽だった。
次の瞬間、自分の見た夢を思い出して、胸の中に冷たい風が吹いた気分になる。手に持ったグラスの中の赤い液体をじっと見る。酔いが醒めるような気がした。


彼女はいつのまにか2本目を飲み干し、3本目をついでいた。
「そっちも何か言ってください。秘密」

Sはしばらく考えてから言った。
「本当は、ワインは好きじゃありません。全然美味しくない」

彼女はけらけらと笑った。
「飲んで」

笑顔で促してくるのに応えて、注がれた酒をいっきに飲み干した。
今日が最後の日であるかのように飲んだ。

何度も自問してきた。どうすればよかったのか。

Sは温かな家庭についてよく知らなかった。物心ついた時には両親は不仲だった。
母親は愛情をかけてくれたが、その時の感情ごと、頭痛の原因とともに取り去ってしまった。覚えてはいるが実感が伴わない。本の中の出来事のように感じる。

愛情を知っているかのように振る舞うしかなかった。

彼女に従い言うことを聞いて、守っていたつもりのものは結局2人の生活でもなんでもない、むなしい自分のプライドなのだろうか。

誰にも見せない、寒々とした荒野のような自分の中身を、君に隠さなければ違っただろうか。
答えは出ない。


Sは短い眠りから醒めた。知らないうちにソファで眠っていた。
時刻は深夜をとうに回っていた。
ソファの反対側で彼女が同じような姿勢で眠っている。
かたわらに落ちている彼女の携帯電話の液晶が光り出した。着信音はオフになっていて、画面がただ静かに瞬いている。
Sはそれを拾って覗きこむと、ズボンの後ろポケットに入れた。


彼女を抱き上げてベッドへ運ぶ。
何も音のない部屋で、どんどんと自分の心臓がやかましい。まるで誰かがドアを叩いているようだった。
叩きながら、誰かが泣いている声が聞こえる気がした。

横たわった彼女の顔を見ると、きつく閉じた目元が震えている。 

「起きてますよね」
囁いて手を握った。
「君の夫でいられるのは、今夜が最後かも」
手に口づける。「違う?」

この手を離すのが嫌だ嫌だとわめいている小さな子供。その愛してほしいという願いが、干からびた胸の奥で温度を持ち始め、身体が熱くなっていく。
熱に浮かされた、潤んだ目を彼女に見られないように、Sは部屋の灯りを消した。

おわり


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