恐竜神父という新たなる哲学

私はある日、運命と出会うー…。

今私はフォロワーに何がなんでも恐竜神父を見て欲しいという溢れんばかりの衝動を冷静に文字に変換してこの文章を書いている。
「noteに書いてくれてプレゼンしてくれるなら見てやらんこともない(曲解)」というありがたいお言葉を頂き、そのために登録しこうして綴らせてもらっているのだ。ありがとう優しいフォロワー。
ガンジーも嬉しいと天で喜んでおります。
そう、そして話は冒頭の文章に戻るのだが私が恐竜神父と出会ったのはまさしく「運命」であったのだ。
元々私はファイナ〇ソー〇などの頓珍漢なコンテンツが好きだ。
というか、天下の任〇堂に裁かれ利用停止されても懲りずにBGMを変更しリリース、あまつさえPS5専売ソフトとして発売しエンディングネタバレ防止の為配信禁止というどこからくるのかわからん自信、ツラの皮の無駄な厚さがとにかく好きなのだ。そう、オタクは自分の作品を自信を持って世に出してる人間が好きなのでね。ゲーム作りというのは自分達が大手企業のクオリティに慣れ親しんでいるだけで一朝一夕で成り立つものではない。
ファイナルソードも、たった一人であそこまでこぎつけたという意味ではまさしく偉業であり誇るべき作品だ。それはそうとその自信はどっからくるんだという私はいわゆるそういう人間が好きなオタクなわけで、ツイッターで「特殊効果 炎上する車」の画像を見た時…悟った。

この映画は、いわゆるただのクソ映画ではないー…と。

私はその画像だけで察した。
画面から迸るただならぬパッション、厚顔無恥、そして溢れんばかりの愛情を…。気づくと、フォロワーを巻き添えにして恐竜神父同時再生上映会を開始していた。もうあれから合計10回近く見ている。

「クソ映画」の定義とは様々だ。
予算の都合で映像技術がとにかく残念なもの、俳優の演技力がいまいちなもの、とにかく脚本が破綻しているもの、原作改変、コスプレ演劇、デビルマン(ジャンル)、しかしどんな映画にもファンが一定数いるわけでクソ映画という呼び方そのものが気に入らないという層も存在する。
その映画、あなたにとってはクソでも私にとっては神映画ですよってやつだ。現に実写版デビルマンはもはやそういう括りをこえてコアなファンによりある意味神話としての形態を為している。今なんの話してるんだっけ?
とにかく、私はその画像を見た時「あ、これ予算が足りなくて失敗したような映画じゃないな。見た後虚無るような部類のやつじゃないな」と直感で
思ったのだ。この映画には何かがある…と。神よ、私は己の直感の正しさを感謝いたします。

突然自己紹介を始めるのだが、私はヒカセンだ。
この紹介になんの意味がある?と思う諸君、ちゃんと意味がある。
ヒカセンで、エンピレアム0番当選番号を引き1カ月半の焦らしプレイの末再抽選で敗北した、Lハウスを狙うヒカセンである。
明日、結果発表である。
もしこれを読んでくれる誰かに光の戦士である同志がいたのなら
分かるはずだ。増えていくライバル、アホのように高い倍率…そんな中で
プレイもままならない焦燥感と緊張に晒されているのではないか?
私は焦らし0番落選を経た者であるが、今はっきり言える。
恐竜神父のおかげでそのような感情を抱くことなく心穏やかに抽選結果を待っているとー…。
今からなるべくネタバレをせず、恐竜神父の素晴らしさを語ろう。
私が体験した世界の崇高さと映画の可能性を…。そして人類が到達すべき新たなる境地の物語を…

開幕の掴みは1分 


この映画の掴みは冒頭90秒にあると言っても過言ではない。
何故なら冒頭90秒ですでに物語はクライマックスを迎えるからだ。
もうここまではあらすじに明記されているので書いてしまうのだが
主人公である恐竜神父(牧師)の両親が開幕90秒で爆死するのだ。
悲劇の始まり これ自体は古今東西のあらゆる映画に
よくあるあるな導入だ。
しかし恐竜神父は違った。あまりにもスタイリッシュな爆死の描写がそこにはあったのだ。

神父(牧師)の和やかな家族との日常
車をバックに手を振る優し気な両親。
「父さん!母さん!」次の瞬間、響く爆発音。主人公が見た…凄惨な光景とは!?

特殊効果 炎上する車

って文字が、画面いっぱいに浮かび上がる。
車?両親?映ってないよ。道路の画面にこの文字が浮かぶだけ
だが主人公はまるでその惨状が見えて言えるかのように悲痛に顔を歪ませる…!!
「No……….」

            

特殊効果 炎上する車
(ダメ押し2回目)

「Nooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


Noって泣きたいのはこっちなんだよな。
お分かりいただけただろうか。開幕1分からこれである。
そしてほとんどのひとはここで「あ、これクソ映画だ」と視聴を切る。
だがその判断、間違っていませんか?
この映画は元々監督が映画化にこぎつけるためにクラウドファンディングなどを行って作られた自主制作映画だ。
だからこそ予算はもちろんない。どんだけ予算がないかなんてもうほぼ裏山で撮ってるだろという撮影場面で明らかだ。
でも予算がないならないなりに、普通ならば見栄を張るはずだ。
私が今まで見てきた低予算映画はみな曲がりなりにも自分の作品をよく見せたいのであの手この手でなんとかしていた。
たとえばほら、車の模型を燃やすとかさ
父親と母親のミニチュアを燃やすとかさ
色々やれたはずなのだ。だがこの映画が取った行動は画面に大々的に浮かび上がるテロップー…。
映画を見る、描くオタクならば誰もが既視感を抱いたであろう。

これ…原稿のネームで「すごいかっこいい戦闘シーン」とだけ書いて未来の自分に作画を託すあれだ…と…。
別名同人女の他力本願寺 他力といいつつ自力である。

こんな演出、日本人のオタク特性を知らないとまず間違いなくできないのである。私は視聴後、監督に鬼才を感じ彼の経歴を調べた。
ツシマをやったりエルデンリングをやったり恐竜が好きで忍者が好きで、そしてエヴァンゲリオンが好き。シンエヴァも初日に見てた。
だからこそわかる。
この監督は、自分の好きなものを形にしたい、一本の映画を完成させたいがために予算から生まれる不都合をすべて「利用」する形として
この映画を作り上げたのだ。
わかるだろうか?この映画はすべて「計算」でできている。
破綻による虚無を生み出すことは容易いが、この映画が内包する虚無とは
すべて人口で生み出された虚無なのだ。
たとえるならば水で薄めすぎたカルピスはただ薄いだけだが、この映画は薄めるどころか普通に水を出してきて「これはカルピスです」と言い張ってる。カルピスを期待して薄めたカルピスを飲まされた客は味の薄さにがっかりするだろう。だが最初からそれが水ならば?明らかに水だけをがぶ飲みさせられているのに「それはカルピスだ!」「乳酸菌!」「あまーいカルピス!」って外野が騒いでたらなんかすげえおいしい水でもしかしたらカルピスのように感じないか?この映画はつまり…「それ」だ。
カルピス薄!と文句をぶつけられるならいや水じゃねえか!!!!と突っ込まれる方が潔い。この映画は己の低予算を恥じていない
そんな革新的な導入から始まり、
主人公は傷心の末、神に見放された地「中国」にいく。中国に謝れ。
そこで彼が到達する場所、は…どう見ても裏山なのだが
そこでもだめ押しでクソデカ文字で出てくる

CHINA

更には主人公の名言「中国は東にあったんだ・・・!」中国は東にはない。
ただこの一連の流れから「俺がそう定めたんならそうなんだよ。素直に受け取れ」という圧を感じる。視聴者はあまりにも気持ち良すぎる押しつけに「あ~~~中国は東にあったかもなあ」となってしまう。普通の脚本ならばここで中国である必要性や中国の街をフリー素材でスライドしたり色々あるだろう。だがこの映画にはない。映っているのは裏山だけだ。
なんならうちの近所の裏山にも似てる。
だけど監督が中国っていったらここは中国なんだよ!!!!!
そしてここから始まるチャイニーズニンジャとの確執…そして主人公が恐竜神父(牧師)となるきっかけとなった竜の戦士の証である化石との出会い…などまあ一連色々あるんだけどなんでチャイニーズニンジャが黒幕なのか10回見た私すら分からないので、この時パッションのみで受け取った私は「竜の戦士…つまり竜騎士ってこと!???」と竜騎士メインのフレにこの映画を押し売りして見せた。これは竜騎士ジョブクエEXTRAクエストであると。今では彼女達も「巻き添えを増やさないと気が済まない…」とりっぱな竜の戦士として恐竜神父布教活動に参加している。彼女達もきっと己の命の答えを見つけたのだろうな。よいことをした。

ここから始まる恐竜神父(牧師)による勧善懲悪殺戮劇場
自分は人なのか?恐竜なのか?という点で彼が揺らぐことはない。
いや揺らいだかもしんないんだけど所々に差し込まれる日常MVがかっこよくてそれどころではない。
彼シャツならぬ彼女ニットワンピでうろついてたり大学生で娼婦のヒロインとなにもかも忘れるためによしよしセックスをするだけだ。
何故ならば彼のしていることはまさしく悪人を裁くことであり、そこには罪も穢れもない。なんならば娼婦と交わってることすら些細な問題だ。(せやろか????????)
悪を撃ち滅ぼすという多大な使命を…神父(牧師)は背負っているのだからー…それに対していや、恐竜に変身する必要性は?と感じたであろう。だがそんなの答えははっきりしている。
監督が恐竜だとかっこいいなと思ったからだ。以上。

ちくわ大名神のような死



この手の罪とは?悪とは?と思い悩むシリアス作品には隣人の死が必要不可欠な要素となってくる。もちろん恐竜神父も例外ではなくあらゆる登場人物が死んでいく。ただし死に方が、全員ちくわ大名神なのだ。
わかるか?ちくわ大名神なのだ。(復唱)
ちくわ大名神とはいわゆるコピペ文でサブリミナルのように現れた謎の存在に対してツッコむ、いわばシュールギャグのテンプレである。
この要領で人が死んでいく。
全然関係ない場面突然挟まれる過去
「ちくわ大名神」
いまなんか死んだな
こんな感じ。
ちなみにその隣人の死が、物語に関わってくることは?
ない
分かんねえけど今なんか死んだなってスナック感覚で死ぬ
突然出てきて突然回想シーン挟まって突然死ぬ
ちくわのがまだアイデンティティあるんじゃねえかってくらいあっさり死ぬ
それがサブリミナルのように定期的にある。
ドラッグムービー見せられてんのかと思った。
そんでなんだかんだで主人公はとても深く傷つきその心を癒す為にヒロインは彼を押し倒し画面9分割無駄にかっこいいセックスプロモーションビデオを流れるのだが、開幕から今に至るまでの場面がろくでもねえ思い出しかねえのでエモさの欠片もねえ。なんならスタイリッシュにセックスしてるだけだからねこいつら。
しかしその演出のせいかなんか今までの思い出すら全部尊くて素晴らしいものに見えてるという現象が発生する。ここまでが終盤に20分前までの流れだ。現物は是非自分の目で確かめてほしい。
私は初見こっからのエンディングで頭痛で寝込みました。

この映画の制作秘話とガンジーの言葉



この映画、あまりの低予算っぷり(それは楽天市場で売ってるような恐竜の着ぐるみからも明らか)からお気づきかと思われるが個人製作である。
クラウドファンディングを募り監督自ら脚本を書き上げた映画なのだ。
監督は忍者好きであり恐竜好きでもあり、牧師の英語の綴りをあやまり恐竜にしてしまったというダジャレエピソードからこの映画は誕生した。
そう、この映画の始まりはダジャレだ。そもそも牧師であって神父ですらねえよという問題は翻訳との合意の上だという。突っ込ませることも計算の内ってことね…ってやつだ。ただ、そこでみんなに考えてもらいたい。
あなたは思いつきでそれを作品として一つの形に昇華し多くの人に見てもらいたいという夢を抱いたことがあるか?そしてそこから先に進めるか?
進んだ先に完成させることができるか…?と。
この映画は計算されたゴミ廃棄場のようなカオスだ。しかしそこにはまぎれもなく愛がある。恐竜やニンジャ、あとなんかしらんけど多分監督のなんか…適当なプライド…やらいろいろ…詰められた時間の無駄のテーマパークみたいな…、だけど監督は、自分の映画の感想をエゴサし自分の映画をこう言っているのだ。「神映画だ」と。
負けたよ…と思った。この監督は10年後には化ける。そんなビジョンが私には見えている。好きなものを形にしたいと望み、それを形にできる人間は少ない、そして完成したそれをどんな形でも誇れる人間はもっと少ない。
創造主に愛されて作られた究極のカオス…それが、「恐竜神父」なのだ。
ちなみに恐竜神父は続編が決定しており、監督は次回作は小島秀夫脚本の映画を庵野監督が撮ったような神映画にすると豪語している。
どっからくるの~~~~その自信~~~~~
ちなみにこの映画、ガンジーの言葉を引用する場面があるのだが言葉が表記される場面と主人公の行動がまず乖離しているのが最大の皮肉でありこの言葉が現実に対するアンチテーゼを込めたのではないかと考察もしたのだが別にそんなことはない

別にそんなことはない(復唱)

結論からして


筆者は何を言いたいのか?と思うであろう。
道徳的な答えを用意するとするならばたとえ世間でどんな駄作と呼ばれようともそこに込められた熱意と偏愛は作品の中に確かに封じ込まれているのだから、私は真剣に作品作りをするクリエイターが好きだ見たいなクリエイター賛美にとしてピリオドを打つであろう。
ただ、これは恐竜神父のプレゼンであるからして、ここで私が言いたいのはそうではない。
何故、私が今心穏やかでいられるのか?恐竜神父を見てから人生が変わってしまったのか?
そう…その理由はあまりの情報過多とツッコミどころとちくわ大明神のような演出の嵐に記憶も人格も崩壊し、数時間前に考えていた悩み事すらほぼ忘却する有様だからだ。つまり、あんぽんたんになる。
この映画、一回見ればみるたび、アホになる。
自分が何しようとしてたか普通にど忘れする。
心が壊され、記憶が再構成され、新しい自分として生まれ変わる毎日を繰り返している。わかるだろうか?監督がやりたいことも、自作に対する愛情もわかるのだ。予算もないこともわかるのだ。それでもどこをどうしたらそうなるという展開の嵐、カオスの権化に人間の正常な精神は数時間ともたない。そして、残るのは恐竜神父を欲しこの映画に答えを求める哀れなモンスターたちなのだ。
恐竜神父を見ることで人生と時間の重みを知ることができる。
恐竜神父を見ることで頭の中が先祖の剣でいっぱいになるからハウジングとかめっちゃどうでもよくなる。
恐竜神父を見ることで人間はもっと自尊心をもって生きても許されるのだなと思うことがある。

恐竜神父は見れば見る度君の記憶を破壊し、毎日新しい自分に変えてくれる。
これは新たなる哲学なんではないか?と最近思う。
あまりにも深すぎるようで浅すぎるようで何もなさそうであるような気がしないでもないこの映画の深淵に到達する為、私は今日も恐竜神父を見る。
そこにはきっと凡人には知りえない答えがあるのだとー…心から信じて

SHE IS FINE     追伸これを書き上げたあと筆者は頭痛で倒れた



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