性加害を責めるのではなく、考えてみた。対立する「被害者擁護」と「加害者非難」
芸能人の性的な問題のスキャンダルが取り沙汰されるたびに、SNS上で出現する2つの対立構図があります。
「加害者を非難し、加害者擁護=被害者の二次被害を主張する意見」
性的な問題が表面化すると、性被害に遭うリスクが高い、女性が中心となって加害者を非難し、被害者の二次被害を啓発しているのをよく目にします。
これは至極真っ当であり、性被害者の心を守る啓発としては全く間違っていません。
しかし、中には「加害者は去勢しろ」という人権を無視した問題発言、「加害者にはGPSをつけて管理するぐらい当然」といった、あまり効果が見られなかった加害者管理を強要するような過激な意見、極端にいえば誹謗中傷も珍しくありません。
いくら主張が正しくても、過剰な攻撃性のある意見は対立を生んでしまいます。
「加害者の行動に対する擁護や、そんなに騒ぐことじゃないという意見」
加害者の擁護や、加害行為の軽視というものも多く散見します。こうした意見が生じている現状を生んでいるのは、社会全体の問題というよりも、「個人の認識の問題」であると言えます。
性依存症は「否認の病」です。
これは、「自分が性の問題に依存しているという事を認められない」ことに由来します。
加害行為の軽視もこれと同様です。「その程度のことは加害行為にはならない」と、加害行為を否認しているのです。
加害者に対する擁護も、「生きていれば性的な失敗の一つや二つあるよね」という共感のような感覚から生じているといえます。
しかし、「誰もが性的な問題を起こした経験がある」という認識は、歪んだ認識です。性的な問題を起こさずに生きている人はたくさんいます。
「性的な失敗に対して、正しい問題意識を持てない」ということが最大の問題です。
性的な失敗には、取るべき「責任」がある
被害者のいる性的な失敗は、「よくあること」と擁護してはいけません。
性被害は、被害者の心を深く傷つけます。
PTSDなんて大げさだ、という意見もよく耳にしますが、PTSDとは戦争や大災害などの非日常的な心のダメージだけを指す病気ではありません。日常生活でPTSDを患う機会が多いのは、児童虐待と性被害と言われています。*
同時に、性的な失敗に対して「責任」が生じるのは、性加害の関係者に限定されます。例え正論であっても、無関係の第三者が加害者を責めるのは過剰な中傷であり、容認されるべきではないことです。
加害者を非難しなくても、被害者を守ることは出来ます。
性的な失敗に対して、男女問わず誰もが「正しい問題意識」を持てる発信をすること。
SAHSの活動を通して、これからも伝え続けていきたいと思います。
*出典「Bessel Van Der Kolk, (2014), THE BODY KEEPS THE SCORE」