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愛犬の旅立ちからハイヤーパワーを考えてみる。

こんにちは。性依存症のSiroです。

私事ですが、愛犬のゆあが先日14歳7か月の生涯を終え、亡くなりました。

今とても悲しいというか、身を切るような虚しさに苛まれているのですが、そんな中でも依存症の回復は続けていかなければいけないのがアディクトというものであり。

その中で、私なりに見つけた一つの考えを紹介しようかなと思います。

ハイヤーパワーとは?

アノニマス系自助グループでは、「神」や「ハイヤーパワー」といった、宗教的な言葉を目にします。これは特定の宗教に関係しているわけではないのですが、回復プログラムと謳っているわりには宗教観が色濃く反映されていたり、自助グループの仲間内でも「ハイヤーパワーのお導きだね」といったような言葉をかけられたりするので、私は個人的にこの「ハイヤーパワー」という言葉で何でも片付けてしまうことに疑問を感じていました。

今回、愛犬が亡くなった時に、「この悲しみの中でも回復は続けないと、これを理由にしてスリップしたら愛犬に合わせる顔がない」と思ったんです。

もしこれが、性に溺れていた時期に愛犬が亡くなったら、どうなっていたでしょう。おそらく同じように悲しみに暮れて、「この悲しみを癒すために性に溺れるしかない。そうすることでしかこの悲しみは乗り越えられない。」と思い込んで、嗜癖を正当化していたんじゃないかなと思います。

愛犬が亡くなるという事実は、私の依存症とは何のかかわりもない、一つ外的経験でしかありません。

その避けられない経験の中で、私たちはいろんな思いを抱えて、対処します。回復を目指す依存症当事者には2つの思考回路が存在すると言えます。一つは、嗜癖に溺れていく思考回路。もう一つは、嗜癖を使わずに対処する思考回路。

よく「ハイヤーパワーだね」といわれるのは、この

「2つの思考回路が自分の中に出来ていることを、実感する」

ことを指すのではないかなと私は思ったのです。

私は愛犬が亡くなったことに意味を求めたくありません。愛犬には愛犬の生きる意味があったと思うし、私が思ったような解釈も、愛犬の意思とは無関係に意味付けしてしまうのもある意味で失礼なのかなとも思います。

ハイヤーパワーという言葉は、説明を省くにはうってつけの言葉なのかもしれません。けれど、回復プログラムと銘打っているのだから、深く考えずに安易にすがることを正解としてしまうのは、少し洗脳的だなと感じています。

だからこそ、私はハイヤーパワーという言葉をこうして考察してみました。

いろんな解釈があっていいと思います。

いろんなハイヤーパワーの形や、神様がいていいと思います。

でも、信仰を押し付けるのは、回復プログラムから逸脱して、宗教の域にはいってしまうことも、忘れずにいたいなと思う今日この頃です。

性依存症当事者の目線から、性依存症の専門書を翻訳した情報や、当事者として感じたことを中心に発信しております。 おもしろいな、もっと読みたいなと感じていただけたら サポートをしていただけると嬉しいです。