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自分の指針は自分であるべき

そういえば私はいつも
正解を人に教えてもらおうとする癖があった、と思い出した。

最後の恋がうまくいかなくなったのも
彼が私のことを本当に好きなのか分からなくて
問いただそうとしたせいだ。
私は彼に正直になってほしいと願っていた。
そして私にとって彼の正直とは
「本当は私のことを好きではない、と私に伝えること」だった。
なんでそんな自分を傷つけるような答えを
彼から引き出そうと躍起になっていたのか分からない。

「彼が私を好きではない」ことが
私の目と心に明確だと思えていたのなら
私はその自分の感覚を信じて
彼から素早く立ち去るべきだった、と今では思う。


でもその時の私は、彼からの最後通牒で終わりにしたかった。
「好きではないと言ってほしい」と思いながら
同時に「本当は好きだと言ってほしい」と
矛盾した思いを抱えていた。


多分自分の判断で終わりにしたのだと
自分の責任で終わりになったのだと
思いたくなかったのだと思う。
私は私の手で自分を孤独に追いやったのだ
と思うことが、とても怖かったのだと思う。

私にとってはいくら趣味の合う友達がいても
週末に一緒に出掛けられる同僚がいても
上司とプライベートな話ができる間柄だったとしても
私の幸福を決めるのはパートナーだと思っていた。

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深い話ができるのはパートナーであるべきで
彼らは私の光も闇も
一番深いところを知っているべきで
私がすべてを打ち明けるのは彼に対してであるべきで
だから彼は私の話をとことん理解できる賢い人であるべきだと
そう思っていた。

だけどその相手は本来は
自分自身にしか担えないもので
誰かにその役目をお願いしたり
その責任を負わせることは
とても傲慢なのだと気づいたのはつい最近だ。

彼に優しく振る舞いながら
とんでもないリスクを負わせていたものだと
今になって思う。
だって誰かをとことん理解するって
とても深くて怖いことだから。

私が自分自信でその役目を担わなければならないと気づいたとき
本当にとても怖かった。
自分の見たくない部分を
目の前にさらけ出すことは
自分の人生を否定することのようで。
でも本当に変わりたいと思っていたから
お皿の上に並べたとき
意外にも冷静にそれらを眺めている自分がいた。
いいところも悪いところもあるじゃん、
と素直に思えている自分がいた。
数年前の私にはとてもできなかったと思う。

多分そうやって自分を俯瞰しながら
同時に自分の感覚を信じて物事を判断していくことが
とても大事なのだろうと思う。
冷静さを見失わずに
私が正しいと傲慢になりすぎずにいられるバランスがどこなのか
まだ探し中ではあるのだけれど。
きっと自分で引き受けたリスクにつまずきながらも
自覚と自戒を持って取り組んでいったその先に
何か見えるものがあるのだろう。
苦しい旅だけれども
きっと偉大な人たちはそれを乗り越えて
自分でいいと思える何かを得たのだろうと、
今はそう思う。

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