【小説】告白

2021年6月、創作系の講義の小課題として執筆。お題は「時間の流れを意識する」。どういう形でもいいので、時間の経過を描写するというもの。
言葉少なに語る作品にしようとしたら「少なすぎてわからない」と他の学生たちから言われ、反省しました。
解釈はお任せするのでフィーリングで読んでいただければ嬉しいです。彼女らは幸せです。


 女の中で、この一連の記憶を思い出と呼ぶなら──そのはじまりは、そう、ひどい嵐の日であった。雨と風は見ごろの花々を無惨に散らし、外は靄で白くけぶり、窓は豊かな山の景観を女に見せて楽しませるという役割をすっかり失っていた。日々の唯一の楽しみを取り上げられて退屈しきっていた女であったが、あるときふと、はっとしたように顔を上げた。女がひとりで暮らすにはいささか広すぎる館を急いて移動し、重い樫の扉を開ける。

 そこには非日常が倒れていた。その非日常は、ほんの少年のすがたをしていて、嵐に運ばれてここまで来たかのようにボロボロだった。女は反射的に少年を守護し、癒すためのことばを口にする。あっという間に目を覚ました少年は、開口一番女に向かって、魔女め、殺してやる、と言った。その身体はかわいそうなほど怯えきってがたがた震えていたが、たっぷり涙を湛えた瞳の真剣さは本物だった。もう長い間、魔女と呼ばれ慣れてしまった女は静かに、わたしが怖くないの、坊や、と尋ねた。今にも嗚咽に変わりそうな「怖くなんかあるもんか」を聞いた女は、そう、おばかさんね、坊や、と笑った。

 そういえばあんな夏の日もあった。遠くの小さな音までよく感じ取れる女の耳は、ずいぶん久しぶりにひとの声を聞いた。そっと窓の外を覗くと、青々とした自然に紛れて、何人かの人間が何かを探すように歩き回っているのが見える。その手にそれぞれ物騒な道具が握られているのを見て、女の顔が曇る。どうやら人間たちはこの館を、あわよくば自分を探しているらしい、と女は悟った。窓辺から離れようとした女だったが、新たに外から届いた声に驚いて、すぐに踵を返す。女の視線は、うろつく人々の後ろからやって来たひとりの青年に注がれていた。あれは間違いなく、いつかの「坊や」だった。およそもう坊やとは呼べない程度に成長した青年は、ここら一帯には見当たらないようだから、一旦引き上げようと人々を説得し、間もなく全員を連れて去っていった。ただ、人々の最後尾についた青年が振り返った一瞬、たしかに目が合った、と少なくとも女は感じた。見た目は変わっていても、真剣な眼差しだけはあの日とまったく同じであった。女はどきりとしたが、すぐに偶然だと思い直す。この館は女のまじないで、人々の目からは一切隠されているはずだったから。

 何もかもが凍り付きそうな冬の日、何かが扉にぶつかる音で、女はまどろみから覚めた。耳を澄ますと、新雪を踏み分けて遠ざかっていくひとりぶんの足音が聞こえる。普段は動物一匹として寄りつかないので、館の周りの雪はいつもまっさらであった。女は慌てて玄関へ出たが、懐かしい気配はとっくに吹雪の向こうへ消えた後であった。居眠りしてしまっていたことを後悔しつつ屋内へ戻ろうとした女はしかし、扉の近くの雪に埋まった何かに気がつく。首から下げる鎖のついた小さな銀色の板だった。そこに刻まれた文字を見て、初めて女は彼の名を知った。女はこの銀色がどういった意味を持つのか知らなかったが、その小ささにそぐわない重みを直感的に理解することはできた。人里のある方角からはここのところ絶え間なく、人為的な低い轟きが届いてくるようになっていた。

 そうしていくつも季節が巡ったある日、女は生まれて初めて、自分の館の扉が叩かれた音を聞いた。西日と紅葉で真っ赤に彩られた世界を背に、同じく真っ赤に染まった男が立っている。彼は女と初めて出会ったあの日よりもボロボロの姿をしていたが、やはりその眼光は不変であった。男は掠れた声で、貴女を殺しに来た、と言った。女は努めて平常を装って、無理よ、と返す。もうあなたにそんな気力は残っていないでしょう、と。男は笑って言った。ああ、だからようやく貴女を殺せるんだ。女はたまらず泣き崩れ、死にゆく男はさらに愉快そうに、むかしとあべこべだ、と笑った。首から下げた銀色に、女の涙がぽたりと落ちる。──ほんとうに、おばかさんね、坊や。

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