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ばけもの・いんたびゅー・いん・みずのそこ

取材をしたいのですがと連絡をしたところ、快く了承の返事が帰ってきた。西区でも高額な部類に入る土地の小さな屋敷だ。重いドアノッカーを叩くと、使用人か部下か、ともかく彼の関係者らしき男に出迎えられた。アンティークな内装。花瓶なんて一体幾らなのだろうか。こちらです、と案内されたドアは一際凝った装飾をされていた。
失礼します、と言ってドアを開ける。10畳程の室内には、センスの良い家具が丁度よく配置されている。取材相手の男は優雅にソファに腰掛けており、私を見て一言、こんにちはと言った。
あまり長い時間話したくはない、と直感した。どこからともなく香る甘く濃密な花の香りに、頭がクラクラと回る。
恐ろしかった。目の前に座る線の細いただの人間が、たまらなく恐ろしい。目を合わせてはいけない気がする。目を合わせたら、どこか違う場所に引きずり込まれてそれで終わりな気がした。
「一応、お名前をお伺いしても……?」
「名前?そんなものに大した意味は無いよ。ヒトは固有名詞に拘りすぎ。名前が表すものを信じ込んでいると大抵嫌な目に合うと相場が決まっているのに」
「では、なんとお呼びすれば?」
「……なんでも構わないかな、呼びやすいようにどうぞ?」
「う、うーん……困ってしまいますね、呼びやすいように、ですか」
「そう。君が俺をどういう風に定義してどういう風に認識するのか、そこには興味がある」
天は二物を与えず、なんて嘘だ。現に目の前のこの人間は、美貌も頭脳も、育ちの良さも兼ね備えているじゃないか。元々は外から来た人だ。調べたらすぐに出てくるくらい有名な家の跡取りだった。何本も論文が出てきたが、目を通そうと思っても理解できなかった。西区の不動産や土地、観光に至るまでを一手に取りまとめているとも聞いた。小さな頭に詰まっている頭脳は異常なまでに優秀で、コチラをじっと見つめる猫のような大きな瞳はどこか深い海の底に似ていた。
「……」
何も答えずにいると、彼はこちらを心配したような声色で言った。
「ヘクター・ブラッドロー?」
俺の名前だ。知られている、のが酷く恐ろしかった。この人は、俺の事を知っている。ふふ、と彼は笑った。
「なんで知ってるのかって顔だね……取材を受けるんだから相手を調べるのは当然だよね」
「……そ、そうですね……えぇ、」
何を聞こうとしていたんだっけ。忘れてしまう。
「それで、何を聞きたいの?」
「ええ、と……ですね」
言葉が出てこない。息が苦しい、できなくなる。おれに、エラはない。鰓、?……?なんでそんな事を思ったのだろう。でも、そう……確かにエラが必要なのだ。この部屋でおよぐためには。息が続かない。コポコポと、ごうごうと、部屋の中に水が満ちる。やめてくれ……
声は遠くなり、まるで水中のようだ。海底では、人は生きていけないのだ。エラがないから……花の香り、海の気配。日が傾き、夕日が影を作る。
「どうしたの?苦しそうな顔をしてるけど……」
「いえ、あの……あなたは、誰ですか」
_____。小さな唇が滑らかに動く。どこかで聞いたような、どこにもないような響き。水は満ちていく。
「息が、苦しくはないですか」
「……その質問はよくされるんだけど、どうして?」
水中で紅茶はのめないはずなのに、彼は優雅にティーカップを口元に運ぶ。どうして、みずのなかにこんなものがあるのだろう。
鰓が、ないのに。どのくらい時間が経ったのだろう。1年くらいか、8ヶ月か、3週間か、7時間か、11分か。それとも30秒。わからない。新進気鋭の若い実業家のはずではなかったのか。これではまるで、人ではないものではないか。対話を試みる。対話、会話の仕方すら忘れてしまいそうだ。
「どうして、と聞かれましても……」
ごぽ、
「どうして、なんでしょう……」
ごぽぽ……
息が続かない。最後の空気を吐き出してしまったから。
あとは、沈むだけだ。
次に目を覚ました時、白い天井が見えた。どうやら俺はあの後気を失ってしまったらしい。あの屋敷を出た記憶はギリギリあるから、道を歩いている時にでも倒れたのだろうか。
「目を覚ましましたか、ミスター」
「はい……俺は、どこで……」
「ここは病院です。東区。道に倒れていたところを通報してくれた方がいて……名前は聞けませんでしたが、ライムグリーンの目をした男性でしたよ、お知り合いですか?」
「いや……そんな知り合いはいない筈ですが」
「そうですか。そういえばこれを渡しておいてくれと言われました。なんでも倒れていたときに大事に握っていたそうです。心当たりは?」
看護師に差し出されたメモを受け取る。ぐちゃぐちゃに握りつぶされてはいたが、確かに自分のものだ。ペラペラと捲っても、意味の無い文字列しかない。海の中に行った事があるわけがなかった。数ページは破り取られていたが、最後のページには見覚えのない字が書かれている。男性の字で、「踏み込むなって言ったろ?そういう所がアンタの悪いところだな」見覚えはない字だったが、取材の前に踏み込むなと忠告してきた人物には心当たりがあった。小柄な、黒髪の男だ。どこか獰猛な黒い目をしていて、時々目薬をさしていたっけ。
ライムグリーンの目では無いが、踏み込むなと言ってきた男にはその位しか思い当たらなかった。
「体に異常はありませんでした。極度の緊張からの貧血でしょう、もう退院しても構いませんが……どうしますか?」
「退院……そうします。金もないですし」
なぜ、金がないのだろう。 使った覚えもない。使ったとすれば、取材でも申し込む時に使ったくらいか。海の中の取材でもしたのだろうか。
「……ではそのように手続きをしておきます。身支度を整えたらで構わないので受付にいらしてください。エレベーターで1階に降りて……あとは足元に矢印が」
「わかりました、ありがとうございます」
退院し、仕事場に戻る。メモに書き込んだであろう男を探したが、その日はいなかった。記者の仕事なんてそんなものだ。出入りのライターだったのかもしれない。どうしてあんなメモを残したのか聞きたかったが、不思議とそれから会うことはなかった。

3日とか1週間とか、そのくらい後

「よぉ」
目が合った上で声を掛けないのもまたおかしいかと思い、話しかける。東区にいるのも珍しい。ついでに昼間のカフェにいるのも。
「何やってんだ?こんなとこで」
返事は待たず、勝手に空いていた席に座る。丁度日陰になるテラス席で、ユーク・アルヴェーンはティータイムを楽しんでいた。
「アンタ好みの茶葉はないだろ。……悪いけど追加、アイスコーヒーで」
通りがかった店員を止め、アイスコーヒーを注文する。「かしこまりました。少々お待ちください」定型文は聞き流し、座り直す。
「ルイくんは、俺の好みを知ってるの?」
持っていた紙の束を丁寧に仕舞い、ユーク・アルヴェーンはゆったりとそう言った。
「俺が知ってる訳ないでしょう?もっと高いモン飲んでるんだろうなって思っただけですよ」
「……君の敬語は気持ち悪いな」
「一応敬意を払ったのに、そんな事言うなよ。何読んでたんだ?」
「査読。……論文の」
「それ、わざわざ紙で読むの面倒じゃないです?」
「電子媒体の方が目が疲れるでしょう?勿論便利だとは思うけど……で、何の用?」
わかりやすく声の温度が下がる。じっと俺を観察してくる水底みたいな目が、あの哀れな男を狂わせたんだろう。ヘクター・ブラッドローのメモには「沈む」だとか「鰓がない」とかそんな比喩ばかりだったから。
「お待たせしました、アイスコーヒーになります。ご注文のお品はお揃いでしょうか」
ピリ付きそうだった空気を破り、さっき呼び止めた店員がアイスコーヒーを運んでくる。ミルクとガムシロップは断り、刺さっていたストローでカラカラと氷を鳴らす。安い苦味は喉を通り過ぎるとさっさと消えてしまう。雑に詰め込まれた氷で薄まって風味も何も無いようなアイスコーヒーが、俺は案外好きだった。
「この前の、どうだった?」
「10分……15分くらいかな、話したのは」
「ふーん……そんだけ持ったならまぁいい方か」
「?」
このクソ暑い中で涼しげにホットの紅茶を飲める理由は知りたい。ついでに燦々と降り注ぐ日差しの中でわざわざ長袖のシャツを着込む理由も。
「……ルイくんって」
ぷつぷつと言葉が切れる。長い思考の途切れ目で、思い出したように言葉にしているみたいな話し方をする人だ。目の前に俺がいることは今のところ思考の範囲外らしい。異様に居心地悪い間の後に、ユーク・アルヴェーンはぽつりと言う。下手したら喧騒に掻き消されてしまいそうな、耳障りがいいだけの声。
「悪趣味だよね」
「お褒めの言葉として受け取っといてやるよ、今回だけな」
「褒めてないけど……」
「あの記者、精神病んで文屋辞めたってよ」
「ふぅん……興味はないかな」
「アンタのせいかもな」
「え……関係ないと思うけど。可哀想だね」

確実にアンタのせいだろまだ自覚ないのか?と焚きつけるのはやめておく。そんな面倒な事は避けるべきだ。ヘクター・ブラッドローが病んだのも辞めたのも本当だ。出す予定だったルポは、あまりに支離滅裂な記述と現実感のない描写のせいでボツになった。随分へこんだようだったが自費出版で3冊だけ作ったらしい。1冊はデスクの鍵がついた引き出し、1冊はヘクター自身の家、残りのもう1冊は中央区の図書館にある。水棲生物についての本が並ぶ書架にこっそり捩じ込まれた薄いルポタージュは、いつか誰かが見つけるのだろう。司書が見つければ処分されるだろうが、ああいうものは案外見つからないと相場が決まっている。
「可哀想、確かにな」
薄まったコーヒーを飲む。
「……君はそれを飲んでから行くといいよ」
是非を答える隙はなかった。ユーク・アルヴェーンが音を立てずに席を立つ。伝票を抜き、会計をする為に店内に消えていく。
自分が人を狂わせていることには笑えるくらい自覚がないらしい。ヘクター・ブラッドローはここで払っている代金と同じ程度の関心しか抱かれなかった。あの元貴族サマは安いカフェで飲む紅茶の値段を気にしないのと同じように、話した後に何人自殺を選ぼうがあの人が気にすることは恐らく今後も無い。
大人しく奢られる事にして、残りのアイスコーヒーを飲む。暑さで半ば氷が溶けて、随分マヌケな味がした。
「さてと」
俺もそろそろ買い物をして帰らなければ。後2時間もすれば、腹減っただなんだとうるさい後輩が帰ってくる筈だった。


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