IFとの会話
私は人格乖離を起こしてはいないと考えているのだけれど、自分の中に他の人がいて、中で会話するということはできる。
IFに近いのかなと思う。
(解離性同一性障害の診断が降りたことはある。でも懐疑している)
思考能力が存在していたら、それはもう存在であるという私の哲学のもと、(多くの人の哲学でもあるだろう)それは存在している。
まず、よく話してくるのは
「あなたはあなたのままで出来ることがあるの」
と、透視のような口ぶりで話してくること。
これは私の信念を手伝って、他人を無闇に否定しなくなった。
どんな人にも役割があり、どんな人もそのままでもいいし、そのままじゃなくてもいい。
私はその人が求める肯定を与える仕事をする。
今日聞いたのは、
「悲哀も後悔もない人生は甘ったるくて飲み込めないんだよ」
と、これまた何処か遠くから伝えてくる。
そうだろうか?と思うけど、そんなような気もする。
私は最近、後悔や悲しみを楽しみはじめている。
ああ、あの人ともう少し、こうしておくんだった。と感じられることは、無よりずっといいのだ。
「全てのことは沢山は要らない、大切なもの一つでいい」
これも今日話してくれた。
私は時々、IFの言うことを倣って私の発言として発することがある。
IFの方が精神年齢が上だからだ。
そして何処かいつも遠くを見ていて、慈愛に満ち満ちている。
本体の私は飢えてもがいているのに、IFは漂っている。
私は悲観しがちだけど、IFは肯定的で、全てを包み込むような顔をしている。
私はIFとの一体化を試みている。
彼女のように慈愛と博愛の人になりたい。
もう一人居る。こちらは年下で、本体の体を守ることしか考えていない人間。
大体いつも
「死ね、殺す、お前のせい」みたいなことしか言わない。
もはやフレンドなのか…?なれなくない…?って思わなくもないけど。抱えてくしかない。
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