ぶらーノ頭ノ中「解釈(学)について」

閉じていた目を開くと、自分の向こうに世界があることに誰でも気がつく。
解釈学とは、世界のありかたについての学である。

解釈(学)について、わたしの思うところを書いてみる。
なるべく、Da sain=現存在とか、世界内存在とか、地平融合とか、そういうわたしもちゃんとわかってない専門用語は使わないようにする。

世界を唯物的にとらえるならば、世界は単なる色の配置だ。あらゆる事物は、定められた(かのような)物理法則によって動くとおりに動く。人の感情や行動ですら、脳や神経の構成要素が物理的に作用することで引き起こされる。とても頭がいいか、とても頭が悪ければ、その通りだと思うかもしれない。しかも、たしかにそういう世界のあり方はたしかに存在している。ただしそれは「わたし」という明らかに「わたし」以外の世界すべてと異なる特別な存在がなければ、の話だ。

世界と出会うとき、まずわかるのは、「わたし」と「わたし以外」という決定的な区別だ。世界はわたしではなく、わたしは世界ではない。その区別を認識したときが、初めて世界を認識したときだ。

そして「わたし」という存在は、世界がただそこにあることの邪魔をする。わたしは世界で引き起こる様々のできごとをあるがままに感じるだけの傍観者として世界の一部となることを許さない。なぜなら世界はわたしによって理解されてしまうからだ。身体を支える固い地面や、日の暖かさや、反射する水面の眩しさ……。それらはわたしに無理やり入り込んで、わたしに理解される。そのようにして世界があるのならば、世界は色の配置ではなく、わたしによる世界の解釈の群体である。

7. 語りえないことについては、沈黙するしかない
「論理哲学論考」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

世界のすべてを言語で記述できると考えたウィトゲンシュタインが最後に到達した沈黙が、世界が解釈の総体であることを教えてくれる。我々はわたしのいない世界について決して語ることができない。

りんごが地に落ちたあの時、ニュートンによって解釈された万有引力が彼の世界にたちどころに現れた。
それ以前からずっと万有引力はあったし、地球はりんごを幾度となく引きちぎってきた。いや、たしかにあったが、しかし現れなかった。
世界とは現れの集合である。現れは、解釈によって成就される。

ではその解釈とはいったいどのようになされるのか?
解釈学とはそういう学である。




と、まあ書いてはみたものの、難しい。
解釈学の中身を説明するのは無理でした。
この記述は解釈学の前提を説明したものだと思ってくらはい。

こんなの読まずにデカルト読んでウィトゲンシュタイン読んでハイデガー読んでガダマー読めばわかる(わたしはわからない)。

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