羽生善治『決断力』とスピーカー作り
『決断力』がしごとに通じること
棋士・羽生善治九段の随分と前の書籍『決断力』には私のしごと(スピーカーづくり)に通じる含蓄のある言葉がいくつもある。「将棋とスピーカー作り」、一見全く異なる世界でありながら、実はかなりの共通点があった。そのひとつひとつを振り返ってみたい。
スピーカー作りも最初は真似から始めるのが良い。ただ、模倣で終わるのではなく、その先に自分自身で考えて作ることを考えているのであれば、どのような意図でその設計がなされたのか、その過程を理解しなければならない。
一方で、データや前例に頼り過ぎてしまうと、自分では閃こうとしなくなる。自分で何かを考えて作ろうとしているのでなければ、そもそも閃くこと自体が必要ないので問題ははないのだが。
データに関しては逆に完全に無視してしまうような人も一定数いそうだが、それはそれでどうかと思う。データと閃き(感性)、どちらもバランス良く活かしていかなければならない。
「閃きなんて必要ない。データこそ全て。」というのも、それ自体を目的としたり、その路線で完成したものから満足が得られるのであれば否定されるべきではない。
矛盾しているように聞こえるかもしれないが「何が常識か」でさえ人によってそれぞれニュアンスが違うことがある。
私は仕事でスピーカー作りをしているので、お客様がどのようなことを「常識」あるいは前提としてお考えなのかを意識する。当然ながら私自身が「常識」と考えていることはあるのだが、そのニュアンスがお客様とは違ったりすることもある。
本来、科学技術における「常識」にニュアンスも何もないのだが、言葉で表現する以上、どうしても修辞の得手不得手によって伝わり方は変わってきてしまう。
私はよほどのことでない限り、お客様が考えるところの「常識」を尊重してお話を進める。お客様の考えを完全に否定するようなことを言ったり、知ることで不幸になるようなことをわざわざ知らせたりはしない。最終的にお客様には満足していただくことが大切で、何でもかんでも真実を知ることが重要ではないと考えるからだ。
「常識」を疑うきっかけとなるような機会をお客様から頂けることもある。多くのお客様と接していると、自分が常識と考えていたことを疑わざるを得ないような考えや事実に出会うことも多くなる。
趣味であれば同じような「常識」を共有する仲間からの情報だけに接する環境に身を置く方が楽なのだが、そのような枠組みを飛び越えて交流していると、自分自身の常識を疑わざるをえないような機会を得やすくなる。時としてそれを苦痛に感じるようなこともあるだろうが、そんなときにこそ良いアイディアが生まれる。そのような機会を得てこそ、より高い水準でお客様の要望を満たすことができるようになるわけであり、自分自身の考えの幅が広がっていくことを実感することができる。
スピーカー作りは将棋と違って勝負ではないのでニュアンスは違うが、最先端の技術を避けてはならないという点では同じだ。取捨選択はケースバイケースで判断すれば良いのであって、最初から避けるのは違う。
これはまさにその通りで、アマチュア向けのツールについてはもちろん、制約のある中でそうしたツールを駆使していると、アマチュアの方が詳しくなる分野が出てくる。専門メーカーもアマチュアがどのような取り組みをしているのか、どの程度のレベルまで到達しているのかくらいは知っておいた方が良い。
一方で、アマチュアでは到達できない領域があるのも事実だ。特定の分野に詳しいからといって過信して全能感を抱いてしまうと視野が狭くなってしまう。
ただ、今はアマチュアとプロができることの差はかつてほどはない。プロのようなアマチュアもいれば、アマチュアのようなプロもいる。単に仕事にしているか、そうでないかの差でしかない分野もあるだろう。
情報には情報を発信した人物なりの考え方が反映されている。様々なエビデンスに裏付けられた科学的なものであったとしても、修辞によって情報の受け手に与える印象は違う。中には矛盾している2つの事柄が、別々の人によってそれぞれ当たり前のように「事実」として述べられていたりする。矛盾していることを同時に成り立たせようとしてもそれは不可能なので、結局は情報を取捨選択することになる。どちらを選択するかを決めるには自分自身の判断が必要だ。
趣味などの場合で、「そこまで真剣に考えるようなことではない」と感じるのであれば、好感を持った人の主張をとりあえず受け入れておけば良い。「楽しむこと」が第一だ。
自身の考えとは異なる主張を採用した第三者に対しても寛容になってほしい。わざわざ反証なんてしないでほしい。だれも得しない。学ぼうとしてきたときに教えてあげれば良い。理由や経緯はどうあれ、その人は「取捨選択」したのだ。
これは情報の取捨選択と近いものがある。「守破離」の考え方にも近いかもしれない。ただ、物事を「修行」とか「鍛錬」とか「極めるもの」と考えたときはそう言えるのかもしれないが、趣味の世界で気軽にやっているのであればどうでも良い。「楽しいか」、「快適か」といったことの方が遥かに重要だ。
これは本当にその通りで、どの情報を信じているかがはっきりしていて、かつ経験が少なければ、迷いは生じない。十分な経験を積んだ人からみれば大胆に見えるようなことでも、当の本人には理論的な裏付けのとれたごく当然のことなのだ。
一方、多くの経験を積んだ人は、なかなか大胆な行動を取れなくなる。いわゆる「理論」通りにやってみた結果、あまり良い成果が得られなかった経験があり、理論的な裏付けがあるからといって、すぐに「これでよし」とはなりにくい。経験がある人ほど、逆に迷いが生じてしまい、なかなか一歩が踏み出せない状態に陥る。第三者から見れば十分理論的な裏付けがあるように見えることでも、当の本人にとっては全く確証のもてない未知への挑戦になっているのだ。
これらは両極端な例だが、それこそ情報の取捨選択、とりわけ「いかに捨てるか」を意識することで、前に進めない人は進むことができるだろう。
迷いが少なく、大胆な行動を取れる人はそのままで良いと思う。むしろそこから生まれてくるものには価値の高いものがたくさんありそうだ。
私は将棋にそこまで詳しいわけではないが、おそらく将棋もスピーカー作りも、「定跡」はあってもそれが全てではない。AI などを用いてロジカルに答えを導き出したとしても、多くの不確定要素によってその「答え」が成果に結びつかないことがある。(近年はかなり成果と直結し始めていると聞くが)両者のこうした点はよく似ている。というよりも他の多くの一般的な事象にも言えることなのかもしれない。
完全に「見る将」で、ルール覚えたての小学生にすら勝てるか怪しい私だが、羽生先生の本を手に取って(と言っても Kindle )読んでみたら、「なるほど」と思う事柄がたくさんあった。一部曲解しているところもあると思うが、今後しごとを進めるプロセスにおいて活かせることがあれば活かしていきたいと思う。
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